「原子力ムラ」の代理人か…日本の原子力行政が今も抱える「3つの問題点」

福島原発事故から10年も経過したが…
新藤 宗幸 プロフィール

原発サイト内の防御のみでは周辺住民の生命と生活を護りえないことを教えたのが、フクシマの過酷事故だ。地域防災計画・住民避難計画は、電力事業者、国、自治体などが連携して作られるべきであり、原発や関連施設の安全性についての規制機関である原子力規制委員会は、その妥当性を審査すべきなのだ。これを欠いた「世界一厳しい基準」など、虚構であるとさえいえよう。

原子力規制機関のあるべき姿

菅義偉政権は、2050年までに脱炭素社会を実現するとした。これを支持する記事がマスコミに目立つ。だが、政権が脱原発を語ったわけではない。相変わらず「原発はCO2を出さない」との言説に基づいて、小型原発の開発なども視野に入れつつ基幹電源に位置づけようとしている。クリーンな脱炭素社会をいうならば、同時に脱原発社会を追求すべきである。

菅義偉首相[Photo by gettyimages]
 

原子力規制委員会は、これまで述べたように、その理念に反して政治からの独立性が高いとはいえない。そもそも「行政権は、内閣に属する」(憲法第65条)というが、内閣に属す行政権の中身を決定する権限は「国権の最高機関であり唯一の立法機関」(憲法第41条)の国会にある。外局とはいえ内閣統轄下の環境省の一部局では、独立性も中立性も保障されがたい。

原子力規制機関は内閣から独立した行政委員会として再構築されるべきだし、それは憲法の行政権規定に反するものではない。委員も事務局員も原子力工学などの専門知に偏するのではなく、人文・社会科学の専門知を持つスタッフを加えて構成し、原発等を制御すべきなのだ。

今日の原子力行政には、野放図に展開されてきた原発等の「後始末」が問われている。過酷事故を起こした福島原発のみならず、多くの原発の廃炉が決定されている。だが、「廃炉」とはいかなる状態をいうのか、その定義すら曖昧なままだ。これから先、定義を明確にしてその工程を厳しく管理せねばならない。また使用済み核燃料の「廃棄」も重大事案だが、まったく見通しは立っていない。

原発処理のうち、これらはごく一部の課題でしかない。フクシマから10年の今こそ政治が果敢に立ち向かわねばならないのは当然だが、原子力規制機関には、政治から独立して専門知を発揮し、脱原発社会に安全に着地させることが求められている。

関連記事