辞任した山田元広報官、霞が関に切り捨てられた「被害者」だと言える理由

「女性初」ともてはやされたが…
藤澤 志穂子 プロフィール

首相秘書官は、所属する官庁の「省益」を最大限実現するために、他省庁や永田町との高い調整能力が求められる。財務省を筆頭に、そうしたノウハウは省内で脈々と受け継がれていく。だが総務省にはそれがなかった。ましてや初の女性、山田氏が首相秘書官の仕事で教えを請える先輩はいなかったはずだ。

当時、財務省のある官僚から「山田氏に怒鳴ってしまった」という話を聞いた。詳細なテーマは割愛するが、首相答弁用の原稿の内容が不十分で「そのまま総理が話したら大騒ぎになっていた」という理由だった。これは本人の資質というより、そういう局面に当たるための教育を入省時から受けている財務官僚と、必ずしもそうではない総務官僚の、環境の違いがそもそもの原因ではないだろうか。

総務省全体の期待を背負い、日本中の注目が集まる中、山田氏の憔悴しきった様子を目にすることが増えた。睡眠は毎日2~3時間と聞いた。定期的に出席していた勉強会も休みがちになり、山田氏が久しぶりに参加した際は、会食半ばで退席したことを覚えている。安倍首相(当時)の外遊に同行するための準備がある、といった理由だった。

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2015年、山田氏は首相秘書官を退任、総務省に戻り情報通信国際戦略局長に就任した。総務省初の女性局長、という華々しい転身だった。ただ総務省から首相秘書官の後任は派遣されず、人選は再び外務、財務、防衛、警察、経済産業の5省庁の体制に戻った。

山田氏の後任の女性秘書官としては、経済産業省から、のちに特許庁長官を務めた宗像直子氏が派遣された。この人事が何を意味するか。つまり総務省派遣の首相秘書官としての山田氏の評価は、必ずしも高くなかったということだろう。

これは首相秘書官としての教育、および支援体制が整っていなかったのにも関わらず押し込んだ総務省の責任、それを知ってか知らずか、女性初の秘書官としてもてはやした政府の責任ではなかったか。

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