2021.03.25
# エンタメ

結局、『シン・エヴァ劇場版』は何を終わらせられなかったのか

わかりやすい結論はあったが…
貞包 英之 プロフィール

『エヴァ』と秋葉原の90年代

説教じみたこうした結末の代わりに、『新世紀エヴァンゲリオン』に求められてきたのは、何であれ、これまでの「拘束」をはずれた新しい生き方をみせることだったはずである。

振り返ってみれば、『エヴァンゲリオン』が最初に放映された1995年から1996年前後は、多くのものごとが終わった時代だった。1995年1月の阪神大震災は多くの人命を奪い、3月のオウムサリン事件はこの社会に透徹した敵意をもつ人びとがいることをあきらかにし、それは翌年の神戸連続殺傷事件に連接された。

よりマクロにみれば、1997年の山一證券破綻が端的に示したように、構造的な不況が顕在化し、たとえば1998年をピークに消費者物価指数も低下し始める。さらに1999~2002年度にはついにGDP(名目ベース)もマイナス成長に陥った。そうした経済不況の結果、長期のあいだ2万人から2万5000人程度を前後していた自殺者数も98年には3万人を超えたのである。

 

この意味で『エヴァンゲリオン』が放映され、ブームとなった時代とは、一言でいえば、バブルの崩壊がついに逃れがたい事実として、日本社会に受け入れられた時代だった。

『エヴァンゲリオン』はこうしたさまざまなものの「終わり」を、多くの人びとに伝え、受け入れさせる記号のように働いた。たしかにバブルをなお引きずる90年代前半に生まれたその企画には、なお日本が世界の中心で、輝ける技術大国であることを誇る残響が残る。

しかしそれはあくまでギミックにすぎず、『エヴァンゲリオン』は世界の終末、より正確には終末(セカンド・インパクト)以後それでも続く日常を描くことで、私たちが戻ることのできない別の時代を生き始めていることを痛感させたのである。

ただしその時代には、たんに「終わり」だけがあったわけではない。世界をリードする幸福な国で生きているといった夢が失われていく一方で、その時代には、かつてとは異なる別の欲望や快楽を生きるという夢も育まれていった。

関連記事