それはエヴァも同じだった。たしかにそこには、(1)スーパーロボットの枠組みを借りた家族の物語、(2)宇宙戦艦ヤマト的物語を反復する日本を世界の救世主とみなすナショナリスティックな欲望、(3)美少女たちがなぜか自分を愛してくれるという男性中心的な都合の良い性的妄想がふんだんに「サービス」されていた。
しかしそれを、わたし(たち)は愛したのではなかった。それはたんなるギミックにすぎず、むしろそれを超えて、父や母の物語とは別の場所で生きる権利――「父に、ありがとう 母に、さようなら」――や、国家や組織が語る大きな物語に対する不信、そしてひとりで生きる強さや孤独が、そこで擁護されていたのではないか。
『エヴァンゲリオン』は登場人物たちを、なぜ自分が戦わなければならないのかわからないような不条理の極限の状態に追い込みながら、シンジや綾波やアスカにそれぞれの決断を迫っていったのである。
そうすることで、秋葉原も、『エヴァンゲリオン』も、戦後日本のなかに拘束され、息をつまらせられてきたものとは別の社会を生きることを夢みさせてくれたといえる。
あえていえばそれはバブル崩壊のなかで中断された(ようにみえる)「消費社会」というプロジェクトを引き継ぎながら、より自由な生き方を目指す試みとしてあった。
そうして戦後日本を縛ってきた「人間」像のなかでタブー化されていた、より孤独で私的な欲望を、しかし妥協なく生きていく道を選ぶことを人びとに提案していったのである。
25年後の閉塞
しかし『シン・エヴァンゲリオン:||』は、そうして開かれた問いに応えたようにみえない。個人が示した勇気と決断の先には、家族の幻想、カップルの幻想、共同体の幻想しかないとそこでは主張され、そこからはみだす個であることは否定――そうでなければミサトや冬月のように死ぬしかない――されるのである。
そうして出口を探していたら振り出しに戻るというループのなかに、エヴァンゲリオンの物語は閉じこめられてしまったようにみえる。そしてそれは、秋葉原の衰退が昨今、つぶやかれ始めているのと、奇妙にシンクロしている。
端的にはコロナ禍のため、しかしおそらくは高齢化や日本の経済的な地位の低下など社会のより構造的な変化のなかで、秋葉原にかけられていた夢は霧消し、その街は普通の街に戻ろうとしているようにみえるのである。
それを仕方がないとみる人もいるだろう。娯楽作品として、エヴァはたしかにひとつのありうべき結末を与えている。ただしこうした「逃避」によって、『シン・エヴァンゲリオン』が、現代的な面白さ、またそれを前提とした、エンターテーメントとしてもより大きな成功の可能性を失ったのではないかという疑問も残る。