エヴァにより現代的な問題が取り入れられていたらどうなっただろうか。
たとえば、フェミニズムの問題。母として子どもを守るか、男に頭を撫でられる存在となるだけが女性の生き方ではないという問題がもし映画に含まれていれば、アスカや綾波は他者のために曖昧に生きるのではなく、自分たちの運命に抗する戦いを、もう少し切実に戦うことができたはずである。
あるいはセクシュアリティの問題。シンジとカオルの関係は、96年当時、BL的なものを大衆的に認知させるのに大きな役割をはたした。しかしそうした関係は、『シン・エヴァンゲリオン:||』ではなかったことにされる。ホモソーシャルな安定した友愛の関係ではなく、より切実で多形的な関係に目覚めたとしたら、シンジは世界を救うための操り人形的な役割におさまることのない自分の物語を生きられたのではないか。
またはエスニスティの問題。『シン・エヴァンゲリオン:||』では、アスカが背負っていたようなエスニシティのような問題は、より単純な人工生命といった問題に還元され、ほとんど浮上しない。
それにもう少し丹念な目を注ぎ、あるいはさらに、アジアに広がる微妙で微細な問題を新たに取り込むことができていたなら――真希波はそうしたキャラクターになれたのかもしれない――、生き残るのは日本人ばかりという不可解な物語も相対化できたはずである。
これらがないものねだりの、奇抜な提案であることは承知している。『シン・エヴァンゲリオン:||』が狙ったのは、これまでのファンを満足させるような職人的仕事であり、それによって、たしかにある種の人びとに、みたいものを「サービス」することはできただろう。
しかし、その代わりに、それはこれまでエヴァをみてきた者以外をファンにする力や、グローバルな成功の可能性への道を閉ざしてしまった。それはニセの答えを与えることで、ポストバブルの日本が向き合うべき課題を塞いでしまったのである。