元飛込の日本代表で、競泳の瀬戸大也選手の妻でもある馬淵優佳さん。競技を始めたのは4歳のときで、引退してからも夫はアスリート。スポーツ抜きに人生は語れないという。自身も競技を辞めたいと思うこともあった中、やはり「スポーツは素晴らしい」と思う、それを確かめるために、様々なアスリートの話をお聞かせいただく。

その第1回に登場いただくのが、広島東洋カープの主将で、日本代表の四番の鈴木誠也選手だ。記事の前編では、鈴木選手がどのようにして育ったのかをお伝えした。後編では、甲子園出場をしていなかった鈴木選手のドラフトの時の想いや、「人生が変わった」という怪我のお話をお伝えする。

ドラフト待機場所に記者はふたりくらいだった
2012年10月25日に行われたドラフト会議。この日は鈴木選手の人生を大きく変えた日といっても過言ではないだろう。広島カープから2位指名を受けたそのとき、彼は何を思っていたのか。
「元々は甲子園にも行っていないし、大した成績を残した選手でもないので。もちろんスカウトの方が見にきていたし、色々な情報は入っていたんですけど『下位指名、育成指名になる可能性もある。ドラフトから漏れる可能性もある』と言われていました。だから僕も『どうせ下位くらいだろうな』と思いながらテレビでドラフト会議を見ていたんです。同世代には大谷選手や藤波選手みたいな甲子園で活躍してたような選手がいっぱいいたので『プロ入り確実の選手は今どういう気持ちでいるんだろう』と考えたりしていました。
そしたらまさかのまさかで2位指名を受けて『え?2位?』と驚きました。当時、僕がドラフト会議を見ていた部屋には記者席が50席くらいあったのに、2人しかいなかったんです。家のリビングくらいの広さしかありませんでした。監督とも『なんか寂しいな』と話してて。それに対して大谷選手たちは目の前にマイクが束のようになって置いてあって、体育館くらいの大きなホールでやってるわけですよ。
ただ、ぼくの2位指名が決まった瞬間、記者が部屋に収まらないくらいすごい勢いで部屋に入ってきました。『うわ、すげー!』と驚いたのをよく覚えています」

話を聞いて当時の鈴木選手の状況が安易に想像できた。メディアから注目されていたわけでもなく、鈴木選手自身も期待をしていたわけでもなく、他の選手の気持ちを考えながら傍観していた状況が一変したのだ。2位指名を受け、天地がひっくり返るような気持ち思いだっただろう。