2021.03.31
# 戦争

最新兵器レーダーを積んだ訪独潜水艦は、なぜ帰国目前に沈んだのか

唯一の生存者が語った爆沈の真相
神立 尚紀 プロフィール

関係者全員が基本的な注意を怠っていた

「入港の途中、はてなと思うことがいくつかありました。まずペナン出港後、シンガポールの第十特別根拠地隊から、新暗号を使った電報が入電したこと。次に、南水道を通過するとき、嚮導(きょうどう)艇らしき船が本艦に向かいながら、先導を中止して引き返してしまったこと。さらに港内に入ってから、舷側ぎりぎりに沈船のマストを発見し、あわてて避けて通ったこと、その上、間違えて陸軍の錨地に投錨してしまったことです」

 

往復3万浬を超える大航海が無事終わろうとしていることを、誰もが疑っていなかった。入港後、ただちに指示された暗号機を陸揚げし、伊三十潜は呉に向けて出港準備に入った。午後4時。「出港用意、錨揚ゲ」の号令が出て総員が配置につき、竹内は艦長、航海長とともに艦橋に立った。

「前進原速」の号令で、艦は入港時の航路を逆に、ゆっくりと動き出した。錨が海面に出たのを確認し、艦長は「第一戦速」を命じた。艦は速度を上げて進み始めた。

「突然、すさまじい爆発音とともに、前部に大きな水柱が上がり、艦はたちまち前方に傾き、海中に突っ込んでいきました。艦橋後部にいた私は、一瞬、衝撃に気が遠くなりました。すぐさま、御真影(天皇の写真)をお守りしなければ、と気づき、ハッチに歩み寄ったんですが、黄色いガスが艦内から噴き上がってきて、飛び込むことができなかった。艦の沈没とともに海中に巻き込まれたらしく、海面に浮かび上がったときにはもう、艦の姿はありませんでした」

シンガポールでは、かつてイギリス軍が撒いていた機雷原を、日本軍も港湾防禦のために使用していて、出入港のため、幅30メートルの安全水路が設けられていた。ペナン出港後に入電した暗号電報は、安全水路の水先案内のための嚮導艇を派遣する、というものだったことがのちに判明したが、内地に帰投するまでは旧暗号を使用する取り決めになっていたため、伊三十潜は新暗号を使ったこの暗号電を解読していなかったのである。

「入港時はたまたま、もっとも潮流が強い時間帯で、繋留されている機雷が潮になびいて寝ている状態だったために触雷しなかったのではないかと、あとで聞きました。ここまで来れば、あとの航海は比較的安全でしたから、無事に帰れたとの思いに、私も含めて皆の気が緩んでいたのかもしれません」

旧暗号書で出すべき電報を新暗号書で出し、伊三十潜が危険水域を通過した事実を何重にも把握しながら何の注意もしなかった第十特別根拠地隊、新暗号書による電報を不審に思いながら解読せず、安全水路についての照会確認をしなかった伊三十潜、関係者全員がこれら基本的な注意を怠っていた。伊三十潜は、安全水路を確認しないまま出港し、機雷に触れて爆沈したのである。

この事故で、14名の乗組員が艦とともに沈んだ。沈没深度が37メートルと、比較的浅かったこともあり、ドイツから譲渡された兵器のうちいくつかはのちに揚収されたが、日本にとってもっとも重要だった電波探信儀(レーダー)が失われたのは大きな痛手だった。もちろん、乗組員のパリでの買い物の数々や、ドイツ側から土産にもらったカメラや腕時計もすべて海に沈み、竹内に残ったものは身につけていた褌(ふんどし)だけだった。

救助された生存者はただちに宿舎を分散して収容され、厳重な緘口令のもと、自由外出も禁止されたため、竹内には乗組員たちのその後のことはわからない。

遠藤艦長以下、竹内を含む士官は、事故原因の調査と責任究明のため、査問委員会に何度も出頭させられた。査問委員会では、責任の範囲が多岐にわたることから、結果的に艦側の責任は不問にふされたが、通常、海軍兵学校の同期生は大尉まで同時に進級するところ、竹内の中尉から大尉への進級は見送られ、半年後に一期後輩の70期生が大尉に進級するのと同じ時期まで据え置かれた。

これは、伊三十潜爆沈の責任の一端を負わされたペナルティであることは明白である。その後の戦闘で、遠藤艦長をはじめ、竹内をのぞく士官全員と、乗組員のほとんどが戦死した。

竹内はその後、呂六十二潜水艦乗組を経て、昭和18(1943)年2月には伊百七十五潜航海長となり、アリューシャン列島のキスカ島守備隊に対する補給作戦に任じたが、濃霧の北太平洋での激務に胸を病み、その後は前線に出ることなく、潜水学校教官として終戦を迎える。

戦後は曲折を経て伊藤忠商事に入社、主に運輸関係の仕事につき、定年まで勤めた。

シンガポールで沈んだ伊三十潜は、昭和34(1959)年、日本のサルベージ業者の手で引き揚げられた。艦内で収容された遺骨が翌昭和35(1960)年2月に帰国したさい、竹内は乗組員代表として霊前に献花焼香し、それが機縁となってNHKテレビの「私の秘密」をはじめ、いくつかのテレビ番組に出演、訪独潜水艦の存在が広く世に知られるようになった。

竹内は昭和35年、NHKテレビ「私の秘密」に出演
テレビ出演を機に、訪独潜水艦の存在は広く知られることとなる。NETテレビ(現・テレビ朝日)にて

「振り返ってみて、訪独第一艦で行ったというのは、私にとっては人生のひとコマに過ぎません。自分の意志でやったことではなく、命令されるままに行って、たまたまその場に居合わせただけですからね。しかし、使命達成まであと一歩のところで、一瞬の油断から大逆転し、奈落の底に突き落とされた無念さは、いつまでも心を離れることはありません」

――さまざまな苦難を乗り越え、栄光を手にする直前の伊三十潜の沈没は、現代のいかなる場面にも、似たことが起こり得るであろう教訓を秘めている。

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