当時、実家が所有するアパートを格安で菅一家に貸していたという、前出の友人・寺田氏が証言する。
「正剛くんはよく泣く子で、夜泣きも多かったので、真理子さんが育児ノイローゼにならないか心配でした。
ヨシのお姉さんが訪ねてきた時、『ヨシも小さい時はよく泣いてた。菅家の血ね』と言っていたのを覚えています」

因果な商売のツケ
そして三男が誕生した直後の'87年、横浜市議選で菅は初当選を果たす。3人息子をほぼ女手ひとつで育てることになった真理子は、子どもたちを連れて清水の実家に身を寄せることもあった。
成長した正剛は、地元の少年野球チームに入った。だが、菅が練習に付き合ったり、試合を見に来たりすることはなかった。横浜市議の清水富雄氏が証言する。
「最初の市議選で選挙戦をお手伝いしてからご縁が続いていますが、当時の真理子さんは子育てで大変そうでしたね。
『明日、正剛の少年野球の試合があるんだけど、お父さんがいないからキャッチボールしてあげてくれませんか?』と言われて、相手をしたことも何度かあります」
自身の野望のために、家庭を顧みようとしない父の姿は、少年・正剛の心に傷を刻んだ。