私の幼かった頃の話を少し
私は1973年、東京の豊島区要町で生まれた。貧しい家庭で、部屋中の小銭を集めて食材を買ったこともあると、のちに母親から聞いた。
埼玉県の片田舎に引っ越して、家の近くにあったスーパーの一角で花の種を売る両親の傍らで、小さい頃は妹と自由に遊んでいた。そのスーパーの非常警報ボタンを押してしまって、母親があちこちに謝っていたことがたしか2回くらいあった。
空き地でダンゴムシを丸めて遊んだり、近所の脇道を探検したりしていた。あの頃はまだ、家族の中に笑顔があったように思う。
しかし、いつの頃からか借金取りが家に来るようになった。なぜそうなったのかは今もわからない。
さらに、いつの間にか、母方の親族と会うことが許されなくなっていた。とてもやさしい人たちで、どうして会うことが許されなかったのか今もわからない。母はずっと会いたがっていた。
そして、どのあたりからか、家庭の中に暴力のない日がなくなっていた。
その頃から、現実から逃れるためなのか、虚勢を張らなければならなかったからなのか、私は誰かと対話することをあきらめ、自分の世界に閉じこもるようになっていった。
私は18歳で家を出た。
「対話の旅」の始まり
私が「対話の旅」を始めたのは、1995年1月17日、京都で一人暮らしをしていたときに起こった阪神淡路大震災の日からだと思う。その前年に、母親を亡くしていた。
それまで私は、あまり何も考えずに生きていた。自分で何かを選択するのではなく、誰かが決めたものに寄りかかっていた。世界には、何か絶対的な真実のようなものがあるのだと思っていたからだと思う。
その日、アパートはひどく揺れて、冷蔵庫は2mほど動き、本棚も倒れてしまったので、私は「ああ、学校に行かないでいい理由ができた」程度に考えて、そのまま、また、こたつの中で眠り込んだ。
しかし、2時間くらいして、寒さで目が覚めた。窓が全開になっていたからだ。何かがおかしいと感じてテレビをつけたら、地震の凄まじさを伝えるニュースばかりだった。
私は1週間後に兵庫県に入る。そこに友人が住んでいたのがきっかけだった。
何をどうしたらいいかわからなかったから、手作りのおにぎりや食材をいくつか持って、友人が住む地域の物資受け入れ窓口に行ったのだけど、すでに大量の食材が全国から送られていたから、持っていったものは何の役にも立たなかった。
私は本当に、何も知らなかった。