教育環境は“メンタル無菌室”状態…!?
ちなみに私が小中学校に通っていた1970年代から80年代初頭は、学校にはまだ当たり前に、良い意味でも悪い意味でも個性豊かな教員たちが揃っていましたし、校則が守れない子どもには怒鳴ったり平気でゲンコツを振り下ろすような気の短い教師もいましたが、そういった粗暴な態度をとられたところで「教師としてありえない」「教師のくせに非道」などとは誰も思ってはいませんでした。

時に不条理な理由で怒られることがあったとしても、人間の社会なんていうのは所詮そんなものだということを、教員だってみんな普通にストレスを抱えながら働いている一介の人
しかし現代では、
どんな食べ物であろうと、しっかり栄養分を吸収して消化できるような頑丈な体のほうが、何が起こるかわからないこの世の中では有利だと思うように、メンタル面でも子どものころからさまざまな社会の歪みや悩みと接していったほうが、大人になってさまざまな問題と向き合うことになっても、その苦境を乗り越えていけるたくましさが養われると思うのです。自分自身がさまざまな痛みや苦しみを経験しなければ、他者を慮れる利他的な配慮もできなくなってしまうでしょうし、想像力が豊かになることもないでしょう。
講演会などでこういう話をすると、子どものいる親御さんたちは「そのとおり」としきりに頷かれるのですが、かといって実生活では世間での教育の全体的な風潮に逆らえる勇気まではなかなか出ない、“世間体”によるジャッジと孤立化が怖くて、全体傾向の同調圧力に背くことができない、というのが現実のようです。こんな教育への姿勢が変わらない限り、失敗や辛酸をなめてでも海外に行ってみようなどと思い立つ子どもも、そして親も現れないのは当たり前でしょう。
落語の噺の中には、とんでもない失敗をしでかし、人を騙し、騙され、調子に乗っていい気になったり失望したり、予定調和などない社会の中でもがきながらも面白おかしく生きている人物がたくさん登場します。
江戸時代や昭和の人々はこうした人間の、理不尽かつ不条理で、なかなか思いどおりにはならない人生の本質を知ることで、大笑いしながら自分を慰め、励まし、「まあ人間なんてぇのは所詮はこんなもんよ」と開き直ってすごしていたところがあると思うのです。
人間を必要以上に理想化せず、高望みもせず、
悪徳代官だろうと、狡猾な商人であろうと、貧乏長屋の住民であろうと、置屋の芸者であろうと、懸命になって生きる人々の日常とその滑稽さを、笑いながら知ることのできた落語は、聴衆にとって自分たちの生き様を俯瞰で捉えるツールのひとつだっ
しかし、負の感情を極力回避させられながら生きる現代の子どもたちに、こうした古典落語を聞かせてみたところで、いったいどんな反応ができるでしょうか。人間たちが失敗や恥をかきながらもくり広げる世界を、異次元での出来事のように感じてしまう子どももいるのではないでしょうか。
そう考えると、明治維新に始まった日本社会の早急な西洋化が、人々のかっこ悪さやみっともなさを人情という美徳と捉えていた心のゆとりを払拭してしまった、ひとつのきっかけだったような気もします。