イメージとして消費される人種や多様性
私がベースとしているこの人種の話は、差別されたことを訴える話ではない。人類は次の段階の議論に行くべきで、私のような立場の人と先住民の融合のためで、共生するための話だ。私たちは次の人種ピラミッドのトップの席を奪い合ってる場合ではない。その人種のピラミッド自体をどうすれば崩すことができるかを考えなくてはならない。
現状、このような人種や多様性の話はファッションの中ではイメージでしか捉えられておらず、表象的に語られてしまうし、すでにそういうことに感心がある感度の高い若者の中をぐるぐるするだけで、彼らは日々理解を深めてくれるが、もっと具体性を持っていて、現実の広い層の多くの人にリーチする手段を探していた。
もっというと、現実社会の人に、「人種などの話をする人=過激」的なイメージがあると私は感じているが、それは過激なことを言っている者ばかりが目立ってしまっているだけで、そうではなくて、私たちは自分たちを再認識し、調和という形を望んでいる層も存在することを届けたい。
被害者が被害の声をあげること自体やその権利は第一に尊重されるベきだが、このまま全員が全員過剰に反応したり、対応したりするのは私より下の世代の、未来の同じ立場の混血の日本人、移民の日本人が、自分たちの様な立場は過激な対応をして、差別されたと訴え続け戦うしか道はないと勘違いしていまう。
もちろん酷い差別を受け、一生治らないような経験をしたものも居ると思う。いま現在、人種的な差別は確実に存在するし、私も経験したことがある上で絶対に否定できない。同じ立場の人々が過去に被害の声をあげ続けその権利を獲得したおかげで、私は今ここで文章を書く権利を与えられていると言っても過言ではない。
だが、何でもかんでも揚げ足取りのように、傷つけられた!!差別!!と言葉の本質を捉えずに騒ぎ立てることは私たちにとっても、現在まで人権を獲得するために声を上げ続けてきた先人たちにとっても、同じアプローチを繰り返している構造になってしまい、良い結果を生まない。
寛容になるのは日本人側だけでなく、混血や移民の私たち側も同じだ。現存の日本人にばかり寛容を求めるのでなく、自分も同じく彼らに対して寛容になっていかなければ、相互作用は生まれず、私たち「異種」の存在は一生この国において成立しないだろう。