時代の「バロメーター」として
私はここで人種の差別の話をしているが、様々な差別は日本だけでなく世界各地で起きている終わりが見えない問題だ。その理由として一つ考えているのは、あまりに簡略的にデータ化された情報社会の影響が大いにあると個人的には感じている。
現代社会の中で私たちは目に見えないものや言葉にできないものをほとんど信じなくなった上に、要素を簡略的に抜き取ってカテゴライズすることをしすぎてしまって、大衆はその枠を越えて考えることが難しくなってしまっている。
カテゴライズ化、パターン化、簡略化は物事をわかりやすく、はっきりと、効率的にしてくれるため、現代における得は多いけど、全ての概念と価値観がより一面的で、より狭義的になってしまう。
多くの物事を、事象を時には嫌い、時には好きになったりしながら、容認し続けることはとても大切で、大変で、それをしなければ、これからの人類を傷つけ固定化し、柔軟性を奪い身動きを取れなくしてしまう。
だから私は言論だけ、表象だけでなく、このような容姿を使った非言語的(身体的)な活動をベースとして、文章で言語的に伝えるという、二つを並行して活動している。実体と概念の間にある目に見えないことも包括して伝えていきたいのだ。
それが可能かどうか、どのような形になるかはわからないが、「自分の人生」を使ったインスタレーションを試みている。私のこれからの露出度や受け入れられ方によって、この時代の位置を測れることができる――そんなバロメーターのような存在になりたい。
これはとても概念的なことで理解されづらいが、枠組み通りの言論しか正しいとされず、訴えて戦うしかない時代から、その先に行かなくてはならないと強く思っている。
統一性を求めすぎている世の中で、私たちには戦う以外にも方法があるということを、このコンセプトを通じた活動で伝え、変化を象徴する存在になりたい。
私は時代の比喩であり、事実として存在している。