「推し」はいつでも「燃えて」いる

さて、物語のなかに踏み込もう(この先、舞台『刀剣乱舞』天伝 蒼空の兵 -大坂冬の陣- の一部ネタバレがあります)。『刀剣乱舞』は歴史上の名だたる名将たちが愛した刀剣たちが、人のかたちに「顕現」した「刀剣男士」を描く作品だ。人とモノとのあわいにある、まさに「2.5次元」の申し子のような存在。

そんな刀剣男士たちは、歴史のあるべき姿を守るため過去に飛ぶ。今回の行き先は慶長19年(西暦1614年)、大坂冬の陣が起こる直前だ。偉大なる父・豊臣秀吉の影でみずからの存在する意味を探す豊臣秀頼と、逸話があまりなくどこか曖昧な存在である刀剣男士・一期一振とのせつなくも爽やかな共鳴、歴史をつくった偉人たちのあっぱれではあるが度し難くもある執念深さなど見どころがたくさんあったなかでも、特に印象に残ったのが次のシーンだ。

どこまでもスリルを追い求め、戦いに身を投じようとする徳川家康を、未来からやってきた刀剣男士・加州清光は「あんたに死なれちゃ困る」と引き止める。家康がこれから江戸時代という太平の世を築くのが彼ら刀剣男士が守るべき「正しい歴史」だからだ。しかし、それだけではない。名だたる武士たちとの合戦に赴かなくても「生きることはそれだけで立派な戦だ」と加州清光は絞り出すように口にするのだ。

そのとき加州清光の念頭にあったのは、それから200年以上ののち、江戸の世を守ろうと短くも苛烈に命を燃やした自分の元の主・沖田総司のことだったのかもしれない。しかし、加州清光の言葉は次元の壁を越えて、わたしたちのもとにもまっすぐ届く。このいつまで続くかわからないコロナ禍に対峙しながら、どうにかこうにか生きているわたしたちもまた、いま戦いのさなかにいるのかもしれない。ああ、しんどくて当たり前、つらく息苦しいのは自分だけではないのだ。

「2.5次元」という時空は、こんなふうに気まぐれにわたしたちのいる、いま、この瞬間と繋がる。それは絶対に「不要不急」などではない。いま自分が生きて戦っているからこそ、舞台の上で戦っているこの瞬間の「推し」が観られるのであって、それは一期一会のかけがえのないことなのだ。

「推し」はわたしたちを励まし、明日を生きる希望をくれる――ある意味で「推し」はいつでも「燃えて」いる。光って、輝いているから、わたしたちの目を惹き、明日を照らしてくれるのだ――闇夜に輝くひとつの星のように。考えてみれば、「推し」と言う言葉を口に出すとき、それはどこか「星」と似ている。もしかすると「○○はわたしの推しだ」と言うとき、その相手が自分にとっての星であり、希望であり、暗い日々のなかでも明日への道を照らしてくれる明かりなのだと、わたしたちは告白しているのかもしれない。