常識がすべて跳ね返される、ロシアのSF映画『キン・ザ・ザ』その深すぎる中身

27年ぶりにアニメ版でリメイク
高木 敦史 プロフィール

赤ズボンを得た人は傲慢になり、逆に赤ズボンを得られなかった人は取るに足らない落伍者という烙印を押されます。常識が固定化され、言葉が簡略化されたことで誰もそこに疑いを持てなくなっています。赤ズボンに意味はなく、ただそれはかつて存在した価値の抜け殻です。

日本でも、物質主義から脱却してこれからは心の時代だ……なんてまことしやかに語られた時期がありましたが、そうして残っているのは抜け殻となった言葉だけと感じている方も少なくないのではないでしょうか。

 

「努力したから成功した」が「成功した人は努力した」はては「成功してない奴は努力してないのだ」と変わり、「安全な商品だから有名になった」が「有名だから安全に違いない」「無名なものは出来損ないだ」と変わった様を幾度となく見てきました。

本来なら「努力」「安全」に宿っていた価値が、「成功」「有名」に移動します。「成功」も「有名」も、本質部分の失われた抜け殻ですが、その抜け殻に人々は群がります。獲得量に応じてランク付けされ、競争が生まれ、勝者と敗者に分けられ、社会に分断が生まれます。

知らない社会と接したときの「照れ」

一個人から見たとき、社会とは「自分以外の全ての人間の総体」ですから、それは必ずしも自分のために存在しているわけではありません。なので至るところで知らない常識、知らない言葉、知らない価値観と接する機会があるでしょう。

新しい学校、新しい部活動、新しいサークル、新しい会社——そういうものに初めて参加したとき、なぜだか照れを感じた経験は誰にでもあるのではないでしょうか。

たとえば自分なんかは、未だに「エモい」という言葉の正確なニュアンスをつかめていません。なので「エモい」は使いたくないし、使わざるを得ないときには恥ずかしさを伴います。これは「エモいが存在する社会」に対して内心でどこか警戒しているからだと思っています。

「エモい」を使うことは、「エモい」という言葉の存在する社会を信用することと同意です。「エモい」を使うのが照れくさいのは、勇気を出して使ってみたら「それは違う」と拒否されてヘコんだ、騙された——というような、感情の毀損を恐れているのでしょう。

キン・ザ・ザに迷い込んだ地球人二人も、最初の「クー」は苦笑いしながら渋々のやつでした。しょうがねえなぁ。郷には入れば郷に従えか。そんな感情を隠しもしなかった。しかし状況が想像以上であることを知り、騙され奪われ続ける中で、いつしか二人が発する「クー」からは照れや迷いが消えていきます。彼らは地球への帰還のために、キン・ザ・ザという社会を信用したということです。

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