常識がすべて跳ね返される、ロシアのSF映画『キン・ザ・ザ』その深すぎる中身

27年ぶりにアニメ版でリメイク
高木 敦史 プロフィール

個人的に思うのは、この感情的な「照れ」を超えさせる何かにこそ、抜け殻ではない価値があるということです。実際、照れを超えたことでようやく彼らは異星人たちに違和感なく受け入れられ、異星人たちと対等に渡り合えるようになります。

というわけで「誰にも促されずに率先して自分からクーするシーン」は(すごく何気ない一コマですが)今回見返した際にいちばん発見があった瞬間でした。なんていうか、多様性の欠片もないキン・ザ・ザの社会に多様性の気配を感じたのです。

この作品に出てくる地球人二人と異星人二人の関係性で良いなと思うのは、互いの社会を「バカげている」と見下しあっていることです。「この星の連中はマッチのことしか頭にない。まったくバカげている」「地球? ズボンの色で階級が決まらない社会なんてバカげている」と、互いに互いをうっすらバカにしながらも、道中それなりに共存しています。

 

彼らは照れのない「クー」を経ることで、お互いの理解し得ない価値観を許容はせぬまでも、なんかそういうのがあるんだなと認知するに至りました。意味不明なことを言われてもきっと何かしら意味・目的があるんだなと耳を貸し、時には交渉を試み、拒否されてもゴネずに次の方法を模索する。助けを求めるけれど、助けに期待しすぎない。

行動の主軸は「こうしてほしい」ではなく、あくまで「こうしたい」である——「認知」が「尊重」に繋がり、「尊重」が「自立」を促す構図です。

互いに許容しないからといって交流を絶ったり敵対したりせず、むしろ相互理解を深めていく。彼らの距離感は心地よく、ともすれば正しい意味での異文化交流だといえましょう。

先ほど、個人にとって社会は自分以外の全てと書きましたが、同時に別の一個人から見たときには自分を含めた全ての人間が社会です。同じ人は二人といませんから、同じ社会を共有できる人も二人といません。ならば社会における目的——ひいては幸福も、二つとして同じものはないはずです。

とすると、昨今頻繁に語られる社会においての多様性とは、幸福の数が増えることだと思います。個々人が自分の幸福のイメージを明確化することにより、自分以外にも各々固有の幸福が存在することの認知や、どれが正解だと決めつけず尊重することに繋がるのではないでしょうか。

……なんて、検閲の厳しかったソ連の映画から多様性を見出すのもおかしな話ですが、そんな中で作られた映画であるからこそ、地球人二人の行動に幸福への前向きさや勇気が宿っているのかもしれません。

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