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今こそ書簡の時
釈徹宗様
ご無沙汰しております。お手紙、拝受いたしました。ゆっくり、そして繰り返し拝読しました。お心のこもった言葉を前にすると、時間からもう一つの「時」の世界へと導かれるように思われます。
対談か往復書簡というお申し出を頂いたときに、今こそ書簡の時だと思いました。会いたいと思う方に会えない時期こそ、書簡を交わせる。会えないときだから語りあえることもあるように感じられます。
これまで、染織家で随筆家の志村ふくみさん、そして詩人の和合亮一さんとの往復書簡を刊行しましたが、どちらのときも一つの素朴な決め事を守りました。それは手紙の往復をしている間に、会って親しく話さないことです。
手紙はそもそも、会えない人に向かって書くものです。それがたとえ一日であったとしても、その一日が長く感じられるとき、人は筆を執るのだと思います。そして、手紙を書こうとして書けないそのときも、相手のことを思っている。そうした時の流れも手紙がもたらしてくれる恩恵なのではないでしょうか。
他者とのつながりが深まっていくとき、自己が語り始める。すなわち告白が生まれる可能性が生じてきます。ここでいう「告白」とは、アウグスティヌスがいうそれで、人間を超えた者を前にした内心の吐露にほかなりません。
「書く」という営みが真に行われるとき、人は思ったことを書くのではなく、書きながら、自分が何を思っているのかを確かめるのだと思います。この往復書簡が互いにとって、そうした経験になることを願ってやみません。

「信じる」とは何か
さて、「信じる」とは何かという問題です。何を信じるかよりも、「信じる」とは何かをめぐって考えてみたいと思います。
現代人は何を信じるべきかは考えますが、信じるとは何かをあまり考えないません。こうした傾向は、信じるという問題だけでなく、あらゆるところにはびこっています。「読む」とは何かを考える前に何を読むべきかと本を探し、「書く」とは何かを考えないままにどう書くかの技法を学ぶのです。
こうしたことは卑近な営みになればなるほど、その影響が甚大です。「食べる」とは何かを知らない者は、口当たりのよい毒を笑顔のまま飲み込むかもしれません。もちろん、それが猛毒であれば人は死にます。
そんな非現実的なことを、とある人は笑うかもしれません。しかし、食物が身体の糧であるように、言葉が心の、さらにはその奥にあるものの糧であることを想い出せば、どんな言葉に接するかは、魂の死活問題であるはずです。「読む」とは、単に目にする文字によって情報を入手するにとどまる営為ではありません。あるときそれは、心の渇きを癒そうとする衝動としてもはたらく。状況によっては、何を「読み」「書き」あるいは「信じる」かが 、まさに身体的生命を包む「いのち」そのものにかかわる問題になることもある。