不特定多数で「社会の敵」を叩く“祭り”が、ネット上で発生するそもそもの理由

電脳世界に広がる「儚さ」を社会学する
奥井 智之 プロフィール

皮肉っぽく言うならば──皆で、ほめようとけなそうと──ネット記事は、ほどなく暗闇のなかに消えていく。そして、ネット記事のコメント欄が、ネット記事と運命をともにすることは断るまでもない。

「祭り」のあとには、寂寥(せきりょう)感に浸る間もなく、次の「祭り」が待っている。

コロナ禍で生じた「社会的距離」の拡大

ネット記事と同じく、儚いものがある。それは、SNSである。

SNS は、今日、「つながり」を生み出す魔法の杖として、人々に愛用されている。

わたしは、30歳ごろから、大学の教員であり、また、同じころから、2、3年ごとに著作を刊行してきた。わたしの仕事上の主舞台は、対面式の授業であり、同時に紙媒体の書籍であった。要するに、メディア学的には、わたしは、まったく旧式の人間である。

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ただし、コロナ禍に見舞われてから、わたしのメディア環境にも、多少の変化が生じている。すなわち、勤務先では、昨年の4月から今日まで、オンライン授業を続けている。そしてまた、思うところあって、昨年の10月から、あるSNSで、情報の発信を始めた。

オンライン授業は、各人が、ネットを介して、1つの「電脳空間」に参画することで成り立つ。そこでの授業空間は、完全に想像上のものである。元々、社会──たとえば家族や会社や国家──が想像上の集団であることからすれば、このことは、特別な経験ではない。実際、技術的な問題が克服されるにつれて、オンライン授業は軌道に乗っていった。

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