「ピアノの詩人」ショパンの魅力とは? その知られざる素顔に迫る

現役ピアニスト、メジェーエワ氏が語る

音楽と言葉

ショパンも文章を書かなかったわけではありません。残された手紙を読むかぎり、批評精神が豊かで、ウィットにも富んでいて、読み物としてなかなか面白い。

子どものときに遊びで書いた「シャファルニャ新聞」などでも、観察眼の鋭さは子どもとは思えないぐらい。見たものを的確な言葉で表現しています。

文学的というよりジャーナリスティックな方向です。現実をクリアに捉えて、面白おかしく伝える。ショパンの劇場(演劇)好きも、その点で理解できる気がします。

でも、音楽について書くとなると、事情は違うようです。ショパンは、『メトード・
デ・メトード』という音楽理論書を書こうとするんですが、完成させることができませんでした。

結局、ショパンにとって、音を言葉で説明することは不可能なんですね。音楽と言語は、別物ということです。ショパンの音楽は言葉を必要としない、とよく言われます
が、まったくそのとおりだと思います。自分の音楽を言葉で解説されることをショパンがすごく嫌がっていたというのも納得できます。

「神を信じない」ショパン

ショパンには宗教的な感情がほとんど見られません。ジョルジュ・サンドはショパンについて「これほど神を信じない詩人、または、詩的な無神論者を知らない」と書いていますが、当時としては珍しいほど信仰が薄かったみたいです。その点は現代人に近いかもしれない。

ショパンは死ぬ前に聖職者を呼ぶのもサクラメント(終油の秘蹟)を受けるのも嫌がりました。聖職者という存在を認めたくないかのような拒み方です。

とはいえ、神様をまったく信じていないということはなかったと思います。神様と直接つながっているので、聖職者が間に入るのを自身の美学が許さなかったということなのかもしれません。

ショパンは相手を慰めたり励ましたりするとき、手紙の中で「神のご加護がありますように」としょっちゅう書いています。本当に無神論者だったとしたら、そういう表現はしないでしょう。自分が困ったときや、絶望したとき、怒ったときにも手紙の中で「神」という言葉が出てきます。

ワルシャワ蜂起をロシア軍が鎮圧したときは、「神よ、あなたは存在するのですか」と書くし、晩年、イギリスで苦労したときには、「神はどうして私をこんなふうに死なせるのか」と書いている。

若い頃にウィーンでコンサートに出演する機会を得ようと努力していたときには、「神様とマルファッティに頼んでみよう」。マルファッティというのはショパンが知己を得た医者でコンサート出演に関して助けてくれそうだった人物です。

困ったときの神頼み、ではないけれど、現代の私たちからしても分かりやすい感覚です。いずれにしても徹底したリアリストのショパンにすれば、形式だけの宗教というのは必要なかったんだろうと思います。ひょっとしたらキリスト教の神というよりは、ギリシャ的な意味で崇高な存在(神)を信じていたのかもしれません。