求められる新しいアイドル像
——日本で「歌って踊る」アイドルを提示したのはジャニーズが最初であり、60年代にはプロフェッショナル志向のジャニーズはGSの素人性を否定していた、と『ニッポン男性アイドル史』にはありました。しかし90年代以降、ジャニーズは「普通」さを打ち出しながらもネットには消極的であるという半端さによって、2010年代以降、一方ではより高い実力や「自分たちの言葉や自作曲を発信する」というアーティスト志向を打ち出すK-POP勢、もう一方ではネットとSNSを駆使してTVのバラエティ番組で見せられる以上の「普通」(身近さ)を打ち出す一部のYouTuberや歌い手がアイドル的に消費される隙を作った——それらの伸長を許し、棲み分ける余地を作ったように感じます。
太田 整理すると現代の男性アイドルを捉える上で2つの軸があると言えます。
エンタメには良くも悪くも現実逃避という側面があります。ですからファンに近づくことでありがたられる面もあれば、世の中に関わり、ファンに近づきすぎるとありがたさが薄れてしまうという両義的な面がある。つまりひとつは、ファンとの距離感をどう位置づけ、演出していくかという軸で捉えられます。宝塚などはファンタジー、フィクションの世界を楽しませてくれる方向に振り切り、フィッシャーズのようなYouTuberは普通すぎるくらいに普通な姿によって親近感を呼び起こしている。あるいは近年では菅田将暉をはじめ若手俳優がアイドル的に支持される流れがありますが、彼らは俳優、つまりフィクションを演じることを中心にし、現実とのフィルターを一枚挟むことによって、リアルに寄りすぎた近年のアイドルが担いづらくなった役割を果たしている。
もうひとつの軸は、どのていど海外を志向し、国内を志向するかのバランスです。BTSのように「自分の言葉でメッセージを表現する」のは欧米のポップスターには当たり前に求められるもので、彼らはそれに適応した振る舞いをしている。
——かつて少女時代などが北米進出した際に向こうの音楽メディアから浴びせられた「工業製品のように作られた存在だ」、自分たちで曲も詞も振り付けも作っていない、自己表現がない人形だ、という批判を踏まえたものですよね。
太田 しかし、一方で日本で培われてきた「作られた部分もあるが、それはわかった上でみんなで楽しもう」というアイドル文化もあります。この両者のあいだでどう接点をみいだし、何を棄てるのか。アイドルに限らずどんな国のエンタメも直面している問いではありますが、単にただグローバル化すればいいわけでも、完全に閉じて成熟していけばいいというものでもありません。
——「ファンとの距離を作るか、近づくか」「海外志向か、国内志向か」の2軸でどう位置づけるかは、10年前の男性アイドルなら良くも悪くもそれほど考えずに済むものだったでしょうね。
太田 近年のジャニーズ事務所周辺の動きに象徴されるように、激動の時期に入ったことを感じています。本を書き始めたときにはあまり想像していませんでしたが、TVの音楽番組が牽引して「王子様」と「不良」の二大系統で動いてきた60年代から80年代までのサイクル、そしてバラエティ番組が牽引して「普通」が加わった90年代から10年代までのサイクルが終わり、SNSと動画サービスが全面化して個の追求とグローバル化がさらに進んだ新しい時代にふさわしいアイドル像が求められるサイクルに入りつつあることを感じています。