菅田将暉は何が“圧倒的に凄い”のか…「俳優の定義を拡張する存在」と言える理由

なぜ「俳優の定義を拡張する存在」なのか

こうした点から見て、菅田将暉は作品ファーストの「職人肌」な俳優といえるのだが、興味深いのはそうした性質を持っていながらにして、老若男女問わず高い人気を誇っていること。

往々にして、過激な内容を含む作品に精力的に出演する俳優は人気がコアに寄っていくものだ。ただ菅田の場合は、自由度が極めて高い作品選びをしていながらも、幅広い層のファンを虜にしている。

個人的な感覚ではあるが、この部分は菅田にしかできない偉業といえるのではないだろうか。彼を「俳優の定義を拡張する存在」と感じるゆえんだ。

たとえば『帝一の國』(2017)や『アルキメデスの大戦』(2019)といったメジャー作品にしても、前者の役どころは総理大臣になろうとする野心家の学生、後者は「美しいものを見ると測りたくなる」数学の天才。両作品ともに、クセのある主人公を生き生きと演じている。

劇場公開が控える『キャラクター』では、画力は高いが、人物描写が苦手な漫画家に扮した。「悪人を描けない」という欠点を抱えた彼は、猟奇殺人鬼(Fukase)の犯行現場を目撃したことでインスピレーションが沸き、彼を題材にした漫画を描き始める。その結果、殺人鬼にシンパシーを抱かれ、追い詰められていくという筋書き。

「MASTERキートン」や「20世紀少年」ほか、浦沢直樹の相棒である長崎尚志が原案・共同脚本を務めていることからわかるように、斬新かつ狂気性をはらんだ野心作だ。規模感はメジャーだが、内容はコアに寄っている。このハイブリッド感はまさに、菅田らしさが光る作品・役どころといえるだろう。

 

同時に、作品選びは菅田将暉という役者自身を示してもいる。これほどの人気者であれば、アイドル的にもてはやされたり、神格化されたりして然るべき。ただ菅田は、そうした環境に置かれてなお、世間の熱をひょいっとかわすような身軽さがある。

先ほど「作品ファースト」と述べたが、彼の演技の根底には「人であろうとすること」との意識が流れているように思えてならない。

「この角度から撮られることで、こういう印象を与えられる」といったようなテクニカルな“術”を使うクレバーな役者ではあるものの、「自分を」カッコよく見せよう、とする意識は極めて薄いように感じられる。

被災地ボランティアに扮した『浅田家!』(2020)では、見た目から人物に入り込みすぎて、観た者から「菅田将暉だと気づかなかった」との声が相次いだという。

放送中の『コントが始まる』では、そうした彼の飾り気のなさが爆発。先述の“パンイチ”シーンや、盟友である仲野太賀との本気で殴り合うような演技の応酬、海に投げ込まれるシーンなど、役を当たり前のように自然に生きている感じが伝わってくる。

彼は昔も今も、いわゆる役者然としていないのだ。だからこそ、目には見えないが確かにあるメジャー/インディペンデントの垣根を越え、活躍しているのだろう。アート映画もエンタメ映画も「演じる」という点においては同じ。菅田を見ていると、そうした“本質”を改めて考えさせられる。

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