2021.06.20

無限判断的な飛躍

「社会性の起原」91
大澤 真幸 プロフィール

「質」の観点からの判断の第一は、「肯定判断」である。たとえば、

(1) The soul is mortal. 魂は可死的である。

は肯定判断だ。これに並ぶ、第二の判断の形態は、当然、「否定判断」である。

(2) The soul is not mortal. 魂は可死的ではない。

判断はすべてこの二種類のどちらかに振り分けられるはずで、これ以外の判断はありえないように思える。ところが、カントによると、もうひとつ、「無限判断」と名付けられる判断がある。無限判断は、次のような形態をとる。

(3) The soul is not-mortal. 魂は非‐可死的である。

否定判断(2)と無限判断(3)は、まったく同じことを意味しているように見える。少なくとも形式論理的には、両者はまったくの同値であって、区別することはできない。しかしカントの超越論的論理学の立場からは、否定判断と無限判断は異なっている。どう違うのか。われわれの議論と関係づけて結論を先に述べておけば、前節の式③が、つまり間身体的連鎖が否定判断に、そして式③’が、つまり第三者の審級が無限判断に対応している。どのような意味なのか。

否定判断は、単純に述語(可死的である)が否定されている。それに対して、無限判断では、非‐述語(非‐可死的である)が肯定されている。まずは、この点に留意しておく必要がある。

 

肯定判断/否定判断という対においては、主語によって指示されている対象が存在していることは、最初から前提になっている。その対象、たとえば「魂」があった上で、それの性質が何であるかが、例えば、それが可死的なのか(肯定判断)、可死的ではないのか(否定判断)が、問題にされているのだ。

無限判断では、そうではない。純粋に否定的なものが、存在そのものの否定がまずある。つまり(存在の)不可能性が出発点である。その上で、無限判断において含意されていることは、否定性そのものが、つまり存在の不可能性が、逆説的にも、積極的な対象性を獲得し、一個の実体として存在し始めることがある、ということだ。「何もない」という状態に対して、「無」というものが存在する状態への移行がありうる、と*11。無限判断が非‐述語を肯定するときに含意しているのは、この移行である。たとえば、(3)の命題で、魂は、「非‐可死性」なるものの実体化である。

間身体的連鎖③と第三者の審級③’との関係は、否定判断と無限判断との対比を通じて明晰に把握することができる。間身体的連鎖の水準で現れているのは、単純な、否定判断的な形式の不可能性である。完全な共感の不可能性、十全な同情はできない、という不可能性だ。第三者の審級は、この不可能性そのものを対象化する実体として登場する。第三者の審級の存在は、無限判断的に措定される。

こうした経緯から導かれることは、第三者の審級の存在の、次のような意味での逆説性である。間身体的連鎖のレベルで障害となっていた不可能性(完全なる共感・同情の不可能性)は、第三者の審級において、一方では純粋に保存され、他方では克服される。保存されるというのは、第三者の審級が、まさにそうした不可能性の実体化された表現になっているからだ。しかし、その不可能性は、第三者の審級を得たことで克服されてもいる。何しろ(存在)不可能とされていたものが、現に存在している以上、その不可能性は解消されていることになるからだ。

この逆説性は、具体的にはどのようなかたちで現れているのか。もちろん、自己と他者との間の完全なる共感、両者の差異を消し去ってしまうような共感は不可能だという事実は残る。しかし、この不可能性を隠蔽するような何か――つまりこの不可能性を非問題化するような何か――が、第三者の審級とともに得られることになる。それこそが、自己と他者との間の公平性への執着、自己と他者と別々であっても公平でなくてはならないという当為の感覚である。

(つづく)

関連記事