この国で“テイラー”や“ガガ”は生まれないのか…日本に漂う「音楽に政治を持ち込むな」の正体

求められる「音楽の力」

新型コロナウイルスの出現によって、私たちはライフスタイルやそれに伴う価値観の変容を促された。誰もが新しい生き方を模索している。

この時代をどう生きるべきか、この社会とどう向き合うべきか。

思い惑う時、音楽の中に答えを探すこともあるだろう。孤独感や閉塞感を和らげてくれる癒しの音楽に救われることもあれば、空想の世界へと誘ってくれる音楽にひと時の現実逃避を手伝ってもらうこともある。時には朗らかな音楽に心の栄養補給をすることもあるだろう。音楽との向き合い方も関係性も人それぞれ、その効能も様々だ。

ただこのような時代の過渡期には、音楽は一層私たちの代弁者や先導者としての存在感ある姿を求められる。先行き不透明で不安定な時代にこそ、求心力のある音楽が必要なのではないだろうか。

 

「問題」に立ち向かうアーティストの姿

歴史を振り返る時、革命のそばには必ず音楽があった。

社会的・政治的な抗議のメッセージを含む歌、いわゆるプロテストソングはどの時代にも生まれた。

改めて説明するまでもないが、誰もが知るボブ・ディランやジョン・レノンをはじめ、古くはビリー・ホリデイ「Strange Fruit」(1939年)は黒人に対するリンチへの抗議曲であったし(昨年BLM運動の高まりとともにストリーミング再生回数を伸ばしたという。80年以上前の曲が、である)、マーヴィン・ゲイ「What’s Going On」(1971年)はベトナム戦争を嘆き疑問を投げかけた。

ボブ・ディラン/photo by gettyimages

70年代にはイギリスでも、セックス・ピストルズが「Anarchy In the U.K.」(1976年)で、ザ・クラッシュは「White Riot」(1977年)で反体制姿勢を示し、反骨のパンク・ムーブメントが吹き荒れた。その後も80年代にはデヴィッド・ボウイのライブがベルリンの壁の崩壊を“手助け”し、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンはロサンゼルス暴動を受けての「Killing In The Name」(1992年)を発表、グリーン・デイは「American Idiot」(2004年)でイラク戦争への強い怒りを示した。

グリーン・デイ/photo by gettyimages

戦争、政治、差別、暴力、貧困、環境問題まで多岐にわたるリアルな問題に対して、アーティストは時代ごとに真っ向から立ち向かってきた。そしてこの戦いは世界中で今なお続いている。

しかし日本ではこのような音楽による戦いは敬遠されがちである。露骨な政治批判や抗議の歌は歓迎されず、当然ヒットチャートに並ぶことも少ない。

特に近年は「社会的」「外罰的」「非日常的」表現の楽曲より、「私的」「内省的」「日常的」表現の楽曲の方がリスナーに好まれる傾向にあると感じる。これはエッジの効いた楽曲より、聴き心地の良い楽曲の方が好まれる傾向にあると言い換えることもできそうだ。

ここで補足しておきたいのは、前者には、表現者側に明確に社会的メッセージを発信する意図があるものを全て含む。仮に歌詞に直接的な表現がなくとも、極端に言えばインストゥルメンタルであっても、例えばギターのディストーションや破壊的なドラミングに怒りや嘆きや抗議を感じ取ることができる。

リスナー側に音表現の背後にあるコンテクストを読み解く力さえあれば、表層に見えるものが何であれ、その音の本来のメッセージはどこまでも深さと広がりを見せるのだ。

加えて補足しておきたいのは、プロテストソングの定義についてだ。

プロテストソングとは「社会的・政治的抗議のメッセージを含む歌」の総称であるが、何をもってプロテストソングと呼ぶかについて厳密な判断は難しい。前段で触れたように、インストゥルメンタルであってもプロテストソングに該当する曲は当然あるはずだし、表現者側の意図によるところが大きい。

とかくプロテストソングという呼び名は嫌悪感を抱かれたり敬遠されたりしやすいため誤解を解いておきたいのだが、改めて辞書を引いて確認すればわかるが、「抗議」とは「反対の意見を主張する」「異議を申し立てる」ことであって、決して相手を「攻撃」することではない。

プロテストソングとは単に否定的なメッセージを発信するものではなく、ましてや他者を攻撃したり傷つけたりするものではない。むしろその逆である。社会を正しく自分たちのものにしていくための血の通った“愛の歌”の総称だと筆者は捉えている。その前提に立って話を進めていきたい。

その上で、日本では「音楽に政治を持ち込むな」と言われることがあり、プロテストソングが疎まれることもあるが、それはなぜなのだろうか。

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