9秒台を期待されながらも苦しむ
まず、ロンドン五輪の1か月後の9月、日本インカレで太もも裏を肉離れする、ということが起きた。おかげで、その冬のオフシーズンの練習を手探りしなければならなかった。ただ、このときは、翌13年のシーズンが始まるころにはかなり良い状態に立て直すことができた。
13年の8月上旬、モスクワで行われた世界選手権への出場を果たす。開幕直前には、日本代表の指導陣から「9秒台もあり得る」という高い評価の声が聞かれるほどの充実ぶりを見せていた。実は、出場のために現地入りしてから、空回りせずに瞬間的に地面に力を加えられる新たな感覚を見つけていた。
ところが、100メートル予選の走りは精彩を欠くものだった。タイムも平凡で、4着の予選敗退。「9秒台」の呼び声を聞いていた私を含む報道陣は「どうしちゃったんだろう」という思いを抱いた。
選手と記者が面会できるミックスゾーンでのレース後の取材は多くの質問が飛び交い、山縣選手は気丈に笑顔を作りながら、ていねいに答えていた。
「顔が青ざめている」
私は彼の表情に落胆の色が濃くなってきていることに気がついた。後半は何かを我慢するような険しい色もかすかに差していた。なかなか途切れない質問が早く終わることを祈りたくなるほどだった。だが、山縣選手がある事実に触れることはなく、本当は何があったのか、その場の私には知る由もなかった。
翌日以降に日本陸上競技連盟から届いた複数のアナウンスの文面は「予選のレース中、左大腿部後面に衝撃があり、医師により肉離れと診断された」「詳細な検査が必要なため、大会期間中に帰国することになった」だった。
あの蒼白の顔貌は9秒台の手応えを現実にできなかった落胆とひどい痛みに耐えられる限界が近づいていたからだったのか、と腑に落ちる思いがした。と同時に、前年のようにオフシーズンまでずっと引きずるようなケガに発展しなければいいが、という心配もよぎった。
悪いことは続いた。世界選手権での「それからは練習をまったくできなかった」ほどの肉離れも影響を及ぼしたのかもしれなかった。
1998年に伊東浩司が10秒00という記録を出して以降、19年間にわたって、そのよりわずか0.01秒でも速くゴールした者はいなかった。
日本の陸上界において、間違いなく存在した〈10秒00の壁〉。乗り越えるのは不可能と思われた〈壁〉に挑んできた若きアスリートたちの努力のベクトルを、山縣亮太へのインタビューを中心に解き明かした一冊。
超人的な肉体を持つ諸外国の有力選手と比べて小柄な日本人アスリートたちは、フォーム、走り方から修正し、0.01秒を縮めるため、科学的な裏付けをもとに練習してきた。
陸上選手に寄り添ってきたスポーツメーカー「アシックス」が、どのようにシューズを進化させてきたのかについても描く。