陸上・山縣亮太「もう俺、続けられないかも」…引退の危機を救った「家族への愛」

「走る哲学者」の軌跡:後編

6月24日から始まった東京五輪代表選考を兼ねた第105回 日本陸上競技選手権大会。男子100mで、いやこの大会で最大の注目を集めているのが、山縣亮太といって過言ではないだろう。

半月前に9秒95の日本新記録をたたき出した山縣は、高校時代から注目を集めるスプリンターだったが、好成績を記録したかと思えば、長引くけがに苦しめられるという、きわめて起伏に富んだ選手生活を送ってきた。

コンマ01秒を縮めるためにアイザック・ニュートンの数式〈F=ma〉を走りに取り入れ、己を徹底的に客観視する「走る哲学者」。そんな山縣を10年以上にわたって追いかけてきたスポーツ・ジャーナリストが、山縣が会得した「走ることの意義」に迫る。

怪我を克服して手にした銀メダル

世界選手権から1ヵ月後の9月、日本インカレを終えた翌朝に、腰に「痛くてベッドから起きれなかった」ほどの激痛が走った。たちの悪い腰痛だった。

12月に取材する機会があり、このことを聞かせてもらった。

「いったん痛みが引いたり、また痛いなと思い始めたり。だましだまし試合に出ていたんですけど、11月初めの大会の後にまったく走れない状態になって。しっかり痛みを取ってから(大事な)冬季練習の時期に入るために、1か月近くしっかり休んだんですけどね。正直言ったら、いま良くなっているかといったら、微妙ですね」

それ以上の具体的なことを、彼は語らなかった。だが、「微妙ですね」という言葉の響きからは、先行きへの不安がにじんでいた。

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このときの彼の悪い予感は的中した。翌14年は腰痛の影響を引きずり、記録が低迷した。15年は春先の休養を決断して日本選手権で勝負に出た。だが、そこで腰痛が悪化。100メートルの準決勝で欠場を余儀なくされ、北京での世界選手権の出場を逃した。

だが、山縣選手は地道な歩みをとめなかった。めげそうになることも、走る意味を見失いそうになることもあったかもしれない。だが、山縣選手は以前よりも強くなって戻ってきた。

16年のリオ五輪。100メートルの準決勝に進出して日本人五輪最高の10秒05で走り、400メートルリレーで銀メダルを獲得した。

17年は3月の豪州でのレースで右足首を痛めたことが響き、ロンドンでの世界選手権をまたしても逃す。「夜、寝付けないことが増えた」。にもかかわらず、代わりに国内で土台から力を蓄えた。

秋になり、世界選手権から帰ってきた桐生選手が9月に9秒98を出した。山縣選手はすぐに桐生選手に祝福のメッセージを送り、メディアに向けて「今回の記録を上回れるように練習に励みたい」とのコメントを出した。

それから2週間後の9月24日。山縣選手は大阪市で行われた全日本実業団対抗選手権の決勝で10秒00を出した。後半もスーッと伸びていく一直線の走りだった。

風は無風に近い追い風0.2mだった。「もしも、もう少しだけ強い追い風が吹いていたら」。レースを見ていた多くの人と同じように、私は実質的な9秒台を苦々しく思った。だが、現実に起きることはただ一つだけだ。現代の細密な電気システムに10秒00という時間の区切りが計測されたという事実があるだけだった。

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