紅白歌合戦の頃が、人生で最悪の時期だった
ドラマの挿入歌として中村自身が出演し、歌うなどし、話題を集めヒットした『友達の詩』。この曲は中村が15歳のときに初めて制作した曲で、実際に感じた恋をすることへの諦めを歌っている。
当時、性的マイノリティをカミングアウトする芸能人が珍しかったこともあってか、メディアから注目を集めた中村のもとには、『SONGS』(NHK)や『僕らの音楽』(フジテレビ)、『中居正広の金曜日のスマたちへ』(TBS。現在は『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』に改名)など、音楽番組やバラエティ番組などの出演依頼が相次いだ。そして、年末にはデビュー2年目でつかんだ紅白出場。
さぞうれしかったに違いない、と思いきや、意外にもそうではなかったという。
「自分のセクシュアリティを公表した後って、当然のようにセクシュアリティに関して聞かれるわけですよ。作った歌の背景を話すのは全然構わないんですけど、登場から人の容姿を評価するような発言とか『私の友達にもあなたみたいな人いるから大丈夫』と言われることもあって。何が大丈夫なのかわからないですし、大丈夫ではない前提があるんだなと感じました。バラエティ番組では『私、ニューハーフみたいって言われるんですよー』とか、直接『男女』みたいなことで笑いをとられることもあって。
セクシュアリティを公表すると、なぜか『なんでも言っていい』になっていったんですよね。人が傷つくかどうかとか、何の疑問もなくデリカシーのない質問やコメントをされる。そこが“うまみ”と思われているんだな、と。でも、自分で公表したことだし、いちいち傷ついてる自分の方がおかしいのかな?って。自分が甘いんだって思い込んでいて、地獄のような日々でした。
歌える機会があるのはうれしかったけれど、今思えば自分が間違って消費されていたんだなって。当時はそれに気づけませんでした。紅白が決まったと聞いたときは、そういったことに疲れ切って心が死んでいたので、正直何も感じられない状態でした」
幼い頃から「家族とはうまくコミュニケーションがとれていなかった」という中村は、紅白出場が決まったことをしばらく親に伝えていなかった。
「当時のマネージャーから、『親に連絡した?』と聞かれて、『いえ、していないです』と答えたら、『なんでしないの?』と。私にとっては真剣に考えたら気が狂いそうな状況だったので、前向きに考えられなくて報告出来なかったんですね。そもそも親への報告くらい好きなタイミングでさせてくれって話ですよね(笑)。
感動的な話の展開を期待するような雰囲気でしたから、そういうのもうんざりだったので、ますます報告しにくくなっていました。実際に親に『紅白出ることになった』と伝えると、『ああ、そうなんだ。がんばって』みたいな反応でした。仕事で辛い思いをしていることは知っていたので、我慢時だということを感じてくれていたのでしょう。多くは語らずといった感じでした。
マネージャーに報告したことを伝えると、『喜んでたでしょう!』といわれ、『いや、普通でした』というと、『え、なんで喜ばないの?』と驚かれて。『紅白に出場することが決まったのに、喜ばないだと……!?』という雰囲気でしたね」
