多用途に応える柔軟な設計
そして、設計には、被災地に作るスタジアムという特別な意味と同時に、もうひとつ「地方のスタジアムのあるべき姿を提示したい」という思いも込められた。
釜石鵜住居復興スタジアムはラグビーなどフットボールでの使用を優先して設計された。
全国の多くのスタジアムは、陸上競技のためのトラックを設け、その内側にサッカーやラグビーや、陸上の投擲競技で使うフィールドを置く。そのため、サッカーやラグビーの開催時は観客席からピッチが遠くなってしまう。
とはいえ、多くの地方都市では、それぞれのスタジアムを両方作るのは難しい。陸上競技も球技もできるスタジアムが主流だった。
その結果、全国に同じようなスタジアムができてしまう。2002年のFIFAワールドカップに向けて全国各地に作られた大型スタジアムも、多くは陸上トラックを備えた、球技観戦にはあまり向かないスタジアムだった。
その点、ウノスタには陸上トラックがない。観客席からピッチが近い。だが永廣さんは意外なことを言った。
「実は、釜石鵜住居スタジアムも、陸上競技と兼用なんです」
どういうことだろう。
「国際大会が開けるようなフル規格ではありませんが、400メートル×6レーンの陸上トラックが設置できるように設計しました」
言われてみると、ウノスタは、秩父宮ラグビー場や花園ラグビー場などのラグビー専用球技場と比べ、メイン、バックの両スタンドからタッチラインまでが少し広く、ゴール裏も空いている。実は、そこは、カーペット状の陸上トラックを置けるように設計したというのだ。
オリンピックや世界選手権は無理でも、地区大会や県大会レベルの陸上競技大会は十分に開けるというのだ。
実用性、汎用性、コストパフォーマンス……おとぎ話のようなこじんまりとしたスタジアムは、実はシビアに計算して設計されていた。とはいえ、夢のようなメッセージ性もまた求められ、反映された。
永廣さんたち設計チームは、スタジアムへ向かうエントランスロードから見える景色にこだわったという。
アプローチからスタジアム全体が見えるようにしよう。芝、屋根、後ろの山。すべてがスタジアムを構成する要素だ。それが一目で視界に入るようにしよう。とりわけ、スタジアムのシンボルである芝生が見えるようにしよう。
それを実現するため、バックスタンドは一部が――スタジアムに向かって右側、三陸鉄道の線路に近い側――が少し削り取られた。ウノスタのバックスタンドが、わずかながらシンメトリーになっていないのはそんな理由からだ。
スタジアムはいろいろな用途に転用可能な方がいい。その発想は、メインスタンド中央部を覆う白い屋根の設計にも反映された。構造物の見えない、吊り構造の幕屋根は、映像を映し出すスクリーンとして、プロジェクションマッピングや映画の上映に活用できるように設計された。
使われ方は千差万別。どんな発想も受け止められるように、受け入れられるように、スタジアムは設計された。どんな市民もそこを使える。
だから、幼稚園児も小学生も喜んでそこを掃除する。草取りをする。スタンドの木製椅子にニスを塗り直すとなれば、ボランティア募集に市民だけでなく遠く首都圏からも参加者が自費でやってくる。
たくさんの人が、スタジアムを作り、メンテナンスし、美しさを保つ――たくさんの人が、スタジアムを愛し、支えている。
「施工してくれた大成建設さんにも感謝しています。短い工期だったけれど、本当にイメージした通りの姿に作ってくれた」
永廣さんの胸を熱くさせたのは、新日鐵釜石のV7時代に主力メンバーだった石山次郎さんが建設現場に立ったことだ。
石山さんは、震災後に支援組織「スクラム釜石」を立ち上げ、復興の希望としてワールドカップ釜石開催へ旗を振った。そして釜石開催が決まると、大成建設に奉職。「安全担当」としてスタジアム建設現場を巡回し、芝のサンプルをテストし、ときには自らハンマーを振るい、あらゆる仕事をこなした。



「石山さんは僕とちょうど同年代で、ラグビーがすごく盛り上がっていた時代のヒーローでした。そんな有名な方が建設現場で働いてくださったことは、私たち設計チームにもすごく励みになりました。本当に、みんなで作ったスタジアムだと思う。こけら落としのときも、ワールドカップのときも、本当に感動しました」