日本人は中国に「裏切られた」…?共産党100周年式典で激減した「改革開放」の言葉
色褪せてしまった「改革開放」
中国共産党は7月1日、厳戒体制の天安門広場に7万人を集めて、創立100周年式典を盛大に開催した。
演説に臨んだ習近平・国家主席は、「中国共産党と中国人民は立ち上がり、中華民族が搾取され、辱めを受けていた時代は過ぎ去った」「未来を切り開くには、中国共産党の強固な指導を堅持しなければならない」と中国共産党の一党独裁を正当化した。

加えて、マスメディアが大きく報じたように、日米欧の対中包囲網に対し、「(中国を)圧迫する外部勢力を許さない」と強調。「強国には強軍が必要」として「人民解放軍を世界一流の軍隊へと建設する」と軍事大国化を押し進める方針も鮮明にした。
しかし、中国の経済成長の原動力となった「改革開放」への言及はわずか5回と、前任者である胡錦濤・総書記の90年記念演説での22回と比べると4分の1以下に激減した。
本コラムでは、この色褪せてしまった「改革開放」という言葉が、かつての中国や日本にとってどれほど重要な意味を持っていたのか考えてみたい。
「改革開放」は、鄧小平体制下の1978年、餓死者も出ていたと言われる経済の深刻な停滞を脱する狙いから、中国が成長を重視する路線に舵を切るにあたって高く掲げた経済政策である。
中国に世界第2位の経済大国の座を奪われ、年々、その差が開く一方の昨今では想像することさえ難しくなったが、当時、この改革開放政策の目指すべきモデルだと持ち上げられたのが日本だった。
理由は2つあった。モデルの候補にあがったのは、第2次世界大戦での敗戦から20年足らずで驚異的な復興を遂げていた日本と西ドイツ(現ドイツ)の2カ国だ。
このうち日本は中国と同じ東アジア文化圏に属するという共通点があったうえ、当時の日本は世界第2位の経済大国になり西ドイツを上回る成功を収めていたことから、日本が鄧小平氏の眼鏡にかなったというのである。