「中動態」っていったい何?話題の哲学者・國分功一郎の思想を読み解く

「意志」への過剰な期待を緩和する哲学
山口 尚 プロフィール

中動態とはどのようなものか

國分の議論は古典ギリシア語を中心的な対象とする――となるとこの古典語の知識がなければ彼の議論は理解できないのか。この問いには「いや、古典ギリシア語を知らないひとにとっても、國分の議論は分かるものであるし、役に立つものだ」と答えたい。

以下で見るように、國分の最終的な主張は日本語の内部へ「植え込む」ことができる。古典ギリシア語をめぐる議論の理解度は各人の予備知識に依存するが、究極的な指摘は特定言語の知識を前提しない。

それゆえ、以下では古典ギリシア語をめぐる議論を追っていくが、そのあたりは(ひとによっては)「大枠的な」理解が形成されれば十分である。私のほうでも、なるだけ分かりやすい話のスレッドをピックアップするよう努めたい。

「能動態/受動態」という動詞の「態」の区別は英語やフランス語にもあるが、例えば古典ギリシア語には「中動態」というものもある。第一に押さえるべきは、この態は決して〈能動と受動の中間を表すもの〉などと理解されてはならない、という点だ(そもそも「能動と受動の中間」と言うだけでは何が意味されているか分からない)。

中動態は固有の表現機能をもつのだが、《それがどのようなものか》はとりあえず具体例を見て確認するしかない。

古典ギリシア語は例えば〈政治を行なうこと〉を表現する動詞をもつが、その能動態(の不定形)であるπολιτεύειν(ポリテウエイン)は「統治者として統治すること」を意味し、同じ単語の中動態(の不定形)であるπολιτεύεσθαι(ポリテウエスタイ)は「政治に参加し、公的な仕事を担うこと」を表現する。分かりやすさのため表にしておこう。

能動態 πολιτεύειν = 統治者として統治すること
中動態 πολιτεύεσθαι = 政治に参加し、公的な仕事を担うこと
 

この一例だけから能動態と中動態の違いを察知するのは困難であろうから、もうひとつ例を挙げておく。《彼は馬をつなぎから外す》という事態は能動態を用いて “Τὸν ἵππον λύει” ( トン・ヒッポン・リュエイ) とも表現できるが、中動態を用いて “Τὸν ἵππον λύεται” (トン・ヒッポン・リュエタイ)とも言い表すことができる。

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違いは何かといえば、中動態を用いた文は《馬をつなぎから外した人物が自らそれに乗る》ということを含意するが、能動態を用いた文はこの含意をもたない(そして他のひとが乗ることが推察される)。これも表にしておこう。

能動態を用いた “Τὸν ἵππον λύει” = 彼は馬をつなぎから外す(そして他のひとが乗る)
中動態を用いた “Τὸν ἵππον λύεται” = 彼は馬をつなぎから外す(そして彼自身が乗る)

こうした具体例において確認すべきは、中動態には能動態とも受動態とも異なる意味合いがある、という事実である。言い換えれば、この世で生じる事象(とりわけ人間の活動)を「する/される」の枠組み以外で把握する文法的な道具立てがある、ということだ。

だがこうなると次の問いが生じる。はたして中動態は何を意味するのか。動詞が中動態で用いられるとき、いったい何が表現されるのか。
 

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