2021.07.20

精霊を見よ――ピダハン

「社会性の起原」92

「人間とは何か」。社会学者の大澤真幸氏がこの巨大な問いと格闘してきた連載『社会性の起原』。講談社のPR誌『本』に掲載されていましたが、85回からは場所を現代ビジネスに移し、さらに考察を重ねています(これまでの連載はこちらからご覧になれます)。

自他の関係の(不)可能性の条件

「間身体的連鎖」から「第三者の審級」への飛躍は、(カントの)「否定判断」から「無限判断」への切り替えに対応している。このことの意味を、「道徳の起原を探る」という目下の課題からしばし離れて明らかにしておこう。というのも、第三者の審級――そしてそこに帰属する第三の視点――の登場は、道徳のみならず、認知現象全般にとって、その成立のための必要条件となっているからである。「否定判断」「無限判断」といった抽象的な概念によって意味されている具体的な状態は何なのか、例をも引きながらつまびらかにしておきたい。

が、その前にまずは理論的なことを確認しておく。ここでわれわれが出会っているのは、生まれたばかりの第三者の審級である。この第三者の審級は、身体たちの共在する現場から独立には存在しない。身体たちは、フェース・トゥ・フェースの近さの中にいる。つまり、身体たちは二人称として互いに向き合っている。この段階の第三者の審級は、こうした身体たちの共在の場の効果であり、自立的な実体としては(未だ)存在しておらず、いわば生成状態のうちにある。

〔PHOTO〕iStock
 

言うまでもなく、このような意味での第三者の審級の成立と、共同注意joint attentionの対象が措定されているということとは、同じことの二側面である。第三者の審級に対して現れているところの事象、その志向的な相関項が、共同注意の対象にあたる。対象は、私個人に対してのみ存在しているわけでもなければ、私とともにいる他者に対して存在しているわけでもない。それは、第三者の審級に対して立ち現れているのだ。が、そのことを、私はことさらに意識するわけではない。共同注意ではなく同時注意simultaneous attentionのケースでは、私にとっては、対象はもっぱら私に対して存在している(同じことは他者に関しても成り立つ)*1。これとは違って、共同注意においては、――私にとって――対象は(私と他者とがともに下属している)第三者の審級に対して存在する。

第三者の審級の――それゆえその共同志向の対象の――出現が、否定判断から無限判断への変換に対応している。このことの含意は、前回の最後に述べたように、次のようなデリダ風の逆説であった。すなわち、第三者の審級(とその対象)の可能性の条件が、不可能性の条件と完全に合致しているということ、これがその逆説だ。再確認しておこう。

私と他者とは異なる視点から世界を見ている。その視点の隔たり――視差――は乗り越え不可能だ。言い換えれば、他者の立場や視点に立った完全な共感や同情は不可能だ。これが、前回、遠心化作用における、他者の視点の私の視点からの撤退、他者の視点の(私からの)遠隔化として記述したことであった。この不可能性が、否定判断のレベルに対応している。「完全なる共感は可能ではない」と。

この命題を無限判断「完全なる共感は〈不‐可能〉である」へと置き換えるということは、ここに示されている不可能性自体がモノとして具現されるということを含意している。そのモノこそ、第三者の審級の志向的な相関項となっている(共同注意の)対象である。その対象は、私と他者との関係の不可能性を表現する障害物である。なぜなら、それは、私と他者とが直接には関係しあえないこと――直接には同一化できないこと――をこそ示していることになるからだ。しかし、同時に、まさにその障害物が媒介として機能することで、私と他者とは、一つの同じ対象へと志向している身体として関係しあうことができる。同じ対象へと志向していることが――その志向性に遠心化作用が随伴している限りにおいて――、私と他者との間の視差を「無関連インディファレントなもの」にするのだ。このような意味で、直接の関係にとっての障害物が、自他の関係を可能にしている。

以上は、前回の最終節で述べたことの復習だが、これは具体的にはどんな状態を指しているのだろうか。

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