「東京五輪2020」で露呈したこの国の統治の崩壊を振り返る

再生への途は「不正への怒り」から
白井 聡 プロフィール

再生への出発点はどこにあるのか

再生の手段はどこにあるのだろうか。それは当然、公正性への感覚を取り戻すことにある。素朴に「東京五輪は楽しみだ」と思ってきた人々も、その実存が問われているのだ。東北の大震災と未曾有の原発事故という危機に対して「東京でオリンピックを!」という回答が出されたことの異様さ、そこに何か途轍もなく腐ったものがあることを直観する感覚がなかったとすれば、そこにこそ問題があるはずなのだ。

 

大会前は「楽しみだ」と思っていた多くの人々が、いま「だまされた」と感じているだろう。しかし、伊丹万作が敗戦直後に書いたように、「だまされた者」は無罪ではない。伊丹はこの上なく理路整然と次のように述べている。「だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」(「戦争責任者の問題」)。

伊丹は、「『だまされていた』という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。『だまされていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである」とも書いている。この「不安」は的中したのであり、その帰結をいま、われわれは目撃しているのだ。

再生への出発点は、不正への怒りだ。われわれが自分たちの社会に対して責任を持ちたいのならば、必要なのはあの「ムシャクシャ」を圧倒する怒り、怒髪天を衝く怒りだ。そこにしかわれわれの希望は存在し得ない。

関連記事