日本の五輪の「開会式と閉会式」が「こっぱずかしくて退屈」なワケ

東京五輪も、長野五輪も…
堀井 憲一郎 プロフィール

長野オリンピックの開会式・閉会式は、「和」をかなり中心に据えていた。

日本的なもの、とくに「日本の祭り」を中心に展開していた。

開会式で、木を建てるということをやっていて、「見ていて寝てしまった」とこれは当時連載していた雑誌の記事に書いている。

長野オリンピックの開会式〔PHOTO〕Gettyimages
 

神式の儀式に立ち会うときも強くおもうのだが、日本的儀式をふつうに展開すると、そこにはまず、リズムやテンポというのが存在しない。間合いもなにもない。ただ平坦に進んでいって、慣れてないととても長く感じる。

「祝詞」にあまり音楽性がないように、純日本的なものを見世物にすると、現代的な身体はあまりついていけなくなってしまう(祝詞そのものも聞く機会が少ないとはおもうが)。

そもそも日本の祭りの多くは、参加している者には楽しいが、見てるほうからすれば、よくわからないうえに退屈である。これは昔から変わらない。それを敢えて式典に仕立てるということは、エンタメ的快楽は捨てて、「日本的なもの」を世界にアピールするという意図なのだとおもわれた。わかってやっているなら、見てるほうは我慢するしかない。そういう感じだった。

開会式は、木を建てる祭りのあと(その最中に寝てしまったのだが、起きると)横綱が土俵入りをしていて、みんなで歌を歌って、最後は巫女さんみたいな人が登場して聖火を灯していた。

わけがわからないのと、リズムはないのと、あとは、日本らしい風景だなとはおもって見ていたが(横綱は寒くないのかともおもっていた)、でも、そんなにウキウキするようなものではなかった。世界に対する日本プロモーションだとおもって黙って見ているしかなかった。世界の人も黙って見ているしかなかったのだろう。

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