「先生を信頼したかった」
僕は中学校の時から、ずっと「校則」に対して抗議を続けてきました。
あの当時は、「ブラック校則」という名前はまだありませんでしたが、どうして丸坊主にしなければいけないのか、どうして靴下の色は白しかダメなのか、どうして学校の帰り道に買い食いをしてはいけないのか、まったく納得できませんでした。
中学、高校と僕が理不尽な校則に対して抗議を続けた一番の理由は、「先生を信頼したかった」からです。
あの当時は、校則問題を先生に抗議している時のもやもやとした気持ちを、明確に言葉にすることはできませんでした。
また、もし言葉にできたとしても、10代の若僧にとって、こんな言葉は恥ずかしく、周りに知られるとかっこ悪いと感じて、口にしなかった可能性もあります。
けれど、今から思えば、ずっと抗議を続けたのは、先生を信頼したかったからだとはっきりと分かります。
授業を通じて、尊敬できる先生が生まれます。クラス担任の時もあるし、特定の教科のこともありました。
この先生の言葉は信用できる、こんな大人になりたいと思った時に、校則問題にぶつかります。
尊敬できる先生に「どうして、リボンの色は黒と茶だけで、幅が2センチと決まっているんですか?白はどうしてダメなんですか?」と聞いても、納得できる言葉は得られませんでした。

教科の解説や人生のウンチクに対して、ほんとうに納得できる言葉を与えてくれた先生が、校則問題になると、いきなり理不尽になりました。「世の中にはルールがあるんだ」と真顔で言われた時は、「先生は世の中のルールがなぜあるか、その理由を考えろとおっしゃいませんでしたか」と混乱しました。その答えは、お茶を濁しているだけとしか思えなかったのです。
そんなはずはない、この先生は普段はとても論理的に物事を説明している、もっとちゃんとした根拠を教えて欲しいと、さらに言葉を続けると、最終的に出てくるのは、「中学生らしくない」という言葉でした。
この言葉はやがて「高校生らしくない」「〇〇中学の生徒らしくない」「〇〇高校の生徒にふさわしい服装と態度で」と続きました。
この言葉を聞くたびに、僕は先生に対する尊敬と親近感、そして信頼を失っていきました。
先生が、どんなに熱く理想を語っても、どんなに厳しく探究心の必要性を訴えても、どんなに真面目に「自分の頭で考えること」を説いても、校則問題に関しては、その正反対、真逆のことをしている。そして、そのことに疑問を持たず、問題にもしていない。
そう感じることは、当時の僕にとってほんとうに苦痛でした。
服装チェックをしている先生を見ながら、「中学生らしい」こととリボンの幅が2センチから3センチになることはどんな関係があるんだろう。リボンが白になると、どうして「中学生らしく」なくなるんだろう。黒と茶が中学生を表す色で、白は違うと本気で思っているんだろうか、と僕は失望しました。
先生が普段仰っている「真理を追究する心」とか「探究心」は、「中学生らしい」という言葉よりもはるかに弱いものなのですか、と聞きたかったのです。