与えられた自由を前にして

――上野さんとの往復書簡を終えて、どのようなことを感じましたか。

鈴木:男女格差の問題について、上野さんが見てきた風景と私が見てきた風景に時代的な差を感じることも当然ありました。男女格差が著しい時代を生き抜き、後続の女性たちのために道を作ってきた上野さんの世代と、少なくとも教育の段階では格差がなく、進学して就職し、男性並みにお金を稼ぐことも可能な時代に生きてきた私の、注目する苦悩や迷いが違うのは当たり前のように思います。そして、男女格差がやや是正された分、貧困や教育格差の問題が浮き彫りになっている場面もあります。

上野さんをはじめとする、女性に寄り添った社会批判や格差是正の恩恵に預かっている私たち世代の女性が以前と比べて自由に生きているのは確かですが、かつてあった問題が解決されても、すべての人たちが幸福になったわけではないという現実もあります。

また、「選択肢があるからこそ悩み苦しむ」ことはあると思います。なおかつそれは「選択肢がないから」というクレームを付けられない苦しみでもある。自分で選んでしまったがゆえの、自己責任という重苦しい問題がのしかかってくる。その悩みはそもそも選択肢がなかった上野さんの時代を考えれば、ある意味では「贅沢な時代の悩み」ではないでしょうか。

上野さんたちは男性優位の時代に血を流しながら、女性たちを囲っていた鳥かごに穴を空けてくれた世代です。そして、上野さんの世代ががんばってくれたからこそ、今の私たちの自由がある。一方で、上野さんの世代は自由の重みを感じられたのかもしれませんが、それを最初から与えられている私たちの世代は、その自由を謳歌するだけでは幸せにはなれなかったということかもしれません。

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女性は「弱者」なのか

――鈴木さんは私たちも「女」であることで美味しい思いをしたとして、ある意味「弱い立場を利用している」かのような女性性を客観的に見つめています。それには、高校生の頃にブルセラや援助交際の現場で経験したことが影響している部分もあるのでしょう。
一方、上野さんは女性=弱者であるということがベースにあり、弱者が弱者のまま生きていける社会を構築するべきとしています。そして、この本で弱さを認めないのは「ウィークネス・フォビア(弱さ嫌悪)」であると綴っていましたね。

鈴木:私にはブルセラ少女時代の経験から「男性を利用した非があった」ということだけではなく、「弱者扱いされたくない」という実感がありました。

例えばブルセラ少女たちは「性を搾取された存在」だと捉える立場もわかるのですが、現場を見たらどう考えても男性がかわいそうに思える。何が悲しくて人のパンツを被って喜んでいるのかと。その人たちから見て、女性が構造的な「被害者」であると呼ばれることには心理的な抵抗があります。そもそも、何か傷ついたという実感もないわけです。

普通に考えたら、人のパンツを被って自慰行為をするというのはおかしなことです。でも、当時はそれをした人が何千人もいました。この人たちはそもそも社会的な強者として扱うべきなのか、真面目に取り合うべき生き物なのかという実感が、学んだ理論とは別に私にはあります。