北朝鮮に渡った姉を訪ねる妹…「自己責任」論では語れない58年間の空白の意味

映画『ちょっと北朝鮮まで行ってくるけん。』が問いかけるもの

私の知らない祖父母の古い記録

三宮駅から繁華街を抜けて東へと進むと、生田川に近づくにつれ、喧騒が少しずつ遠のいていく。粗いコピーを重ねた古い記録書類を片手に、私は雲井通をたどっていた。

戦後間もない頃、この周辺には、取り締まりや移転が繰り返されていた「闇市」があったようだ。記録によると、その闇市の近くに私の祖母は居を構えていたらしい。今では巨大なビルが並ぶ一角もあり、当時の面影はもう、残ってはいない。

雲井通6丁目にあった闇市「国際マーケット」

それでも、祖母がここで呼吸していたのだと考えただけで、雑踏の中で心の奥がじわりと温かくなる。彼女は戦後の混乱期をどのように生き抜き、どんな風景をここで見つめていたのだろうか。

私は祖母の人生を、書類の上でしか知らない。父は自身が在日コリアンであることを一切語ることなく、私が中学2年生の時、この世を去った。「外国人登録原票」を引き出し、祖父母の古い記録を私が手にしたのは昨年になってからだった。

日本の植民地支配下の朝鮮半島で、生活基盤を失って渡日を余儀なくされた人々、労働力不足を補うために連れてこられた人々、あるいはその次世代を含めた朝鮮半島出身者は、植民地時代は「日本人」と扱われていたものの、戦後、一方的に国籍をはく奪されてしまう。

 

外国人登録制度は、そんな在日コリアンたち「外国人」を、「治安管理」を掲げ「管理」「監視」するための制度だった。だからこそ、その制度を頼って家族の歩みを知ることに、素直に喜べない自分もいた。

祖母は1938年、11歳の時に、本籍のある釜山から山口県下関市に渡ってきている。そして1959年、32歳という若さで、ここ神戸で亡くなった。1959年――それは「帰国事業」が始まった年だった。

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