リラックスして本音を語れる「居場所」を作りたい――2001年9月11日のアメリカ同時多発テロで夫の陽一さんを失った杉山晴美さんは、3人の子を必死で育てながら、自身も助けられた「メンタルケア」の重要性を考えるようになる。そして長男が中学生になった2010年に一年発起、精神対話士という資格を取り、東日本大震災のボランティアにも赴いた。

並行して、様々な出会いと共に本当の「居場所」として、都内に「晴ればーる」というイタリアンバルをオープンさせた晴美さん。陽一さんのかつての勤務仲間やママ友、同窓生など多くの人の「居場所」になっていった様を前編でお伝えした。後編では、多くの人の居場所になっていたこの「晴ればーる」で、晴美さんをずっと支え続けた母の百合子さんを見送った時のことをお伝えする。

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母の誕生日のお祝いを「晴ればーる」でした直後に

お店を始めてそろそろ2年を迎えようとしていた2017年の1月、母の誕生日の夜、家族皆で晴ればーるに集まりお祝いをした。昭和初期の生まれのわりに、昔からハイカラなものが好きだった母は、オリーブが日本に今ほど普及していない頃から好んで食べていたり、イタリアが好きで何度も旅行に行っては、来世はイタリア人になると言い張っていた。

この夜も、大好きなイタリア中心の欧州料理とワインを、孫たちに囲まれ、楽しそうに食べたり飲んだりしていた。

飲食が大好きな晴美さんが、信頼するシェフとともにオープンしたイタリアンバル「晴ればーる」で誕生日のお祝いを 写真提供/杉山晴美

翌日午後、くも膜下出血で倒れ病院に救急搬送され、その後約半年闘病したが、その間食事は一度も取れないまま、天に召された。87歳の誕生日の晴ればーるでのディナーが、最後の晩餐となった。

母は生前「私はお葬式なんてしなくていい。周りは年寄りばっかりなんだから、みんな足が悪かったり、腰や膝が痛かったりなのに申し訳ない!」そう言っていた。
人に迷惑や世話をかけるのが大嫌いな母の、その遺志を無視することはできない。が、かといって親戚や母の友人達とてお別れができないのはきっと寂しく想うであろう。そこで思い立ったのが「お別れの会」である。親族のみで通夜告別式を済ませ、後日お別れの会を企画した。

会当日は一日晴ればーるを開放し、皆さんそれぞれ好きな時間にいらしていただき、お席についてお食事をとったり、お酒を飲んでいただいた。店内には母の遺影と、百合子という名前通り、母を象徴するような凛と美しい百合の花を沢山飾った。そして葬儀の写真をパソコンで見られるようにしながら献花台を設け、皆様にも最期のお別れをしていただいた。

「晴ればーる」で行った、母・百合子さんのお別れ会。百合子さんとの思い出を多くの人と共有できるようにしたという 写真提供/杉山晴美

多くの方々が足を運んでくださり、お陰様で、寂しさの中にも温かみのある本当に良い会を持つことができた。晴ればーるで皆さまをおもてなしできた事を、母もきっと喜んでくれているに違いない、そう思えた。