倭王はいつ、いかにして統治者としての専制的性格を獲得したか

古代日本統合の過程を探る
「万世一系」の天皇を頂くとされる「日本」の起源はどこに求めるべきなのか————。
複数の王統が大王位を目指し競合していた時代が終わり、唯一の系統が大王の地位を独占するに至るプロセスを、これまであまり注目されていなかった史料から読み解いた現代新書の最新刊『倭国 古代国家への道』。今回はその発売を記念して、5・6世紀の列島社会における国家形成の歩みを素描した序章を前後編に分けて特別に全文公開します。

倭王の成立

本書は、と称された日本の列島社会における国家の形成過程を、5・6世紀を中心に検討し、その特徴を明らかにすることをめざしている。倭は中国の人びとによる呼称だが、後に列島を広域に支配する政権の自称ともなる。

5・6世紀の列島社会にどの程度の人々が暮らしていたのかを正確に知ることはむずかしいが、時代を降った奈良時代初めには、当時の戸籍や公文書類から人口は、およそ450万人から500万人程度であったと推定されている。

その頃の出生時平均余命は30歳前後。疫病や災害の影響を受けやすく、多産多死の社会であったとされる(今津勝紀『戸籍が語る古代の家族』)。5・6世紀の社会も、大きくは変わらない状態だったのではないかと思われる。倭王を中心とする王族と豪族とによって構成された倭王権が基盤としていたのが、このような、現在とは比べものにならない脆弱ぜいじゃくな社会であったことをまず認識しておく必要があるだろう。

紀元1世紀の頃には100あまりの小国に分立していた倭だったが(『漢書かんじょ』地理志)、3世紀前半には30ほどの国に統合されていた(『三国志さんごくし』東夷伝倭国条。いわゆる「魏志倭人伝ぎしわじんでん」。以下、「倭人伝」)。列島各地に存在した大小さまざまな地域勢力が、これらの書物には「国」と記されているのである。

『後漢書』東夷伝は、永初元(107)年、倭国王帥升すいしょうらが後漢に使者を派遣したことを記しているので、地域勢力の連合体としての倭国、またその代表者としての倭王の地位は、2世紀初頭には成立していたことがうかがえる。

"親魏倭王" 卑弥呼の登場

2世紀後半の倭国では、地域勢力同士の争いによる混乱が続いていた。『後漢書』東夷伝は、桓帝かんてい霊帝れいていの間(146〜189)、倭国は大いに乱れて互いに争い、統治する者がなかったと記す。「倭人伝」は、倭国はもともと男子を王として70〜80年を過ごしてきたが、国が乱れて相争う状態が続いたとする。

2世紀後半は、日本では弥生時代後期にあたるが、倭を構成する個別の「国」の間にはきびしい対立状態があった。発掘調査によっても、環濠かんごうを設けたり高所に営まれたりした防御機能を持つ集落や、殺傷能力を高めた武器の存在などが明らかになっている。こうした争乱状態を終わらせるため、倭王の地位についたのが邪馬台国やまたいこくの女王、卑弥呼ひみこであった。

しかし卑弥呼は、強大な権力を振るって争乱を終息させたのではなかった。彼女は人びとによって「共立」された存在であり、しかも「鬼道きどうに仕えてよく衆を惑わす」(呪術に巧みで人心を操作できる)と記される、巫女(シャーマン)的な存在であった。

景初2(238)年、卑弥呼がに使者を派遣した際、皇帝から親魏倭王しんぎわおうの称号を賜与されているよう に、卑弥呼の倭王としての地位は国際的な承認を得ていたが、列島社会にあっては、あくまで紛争の裁定者として国々から委任されたものだったのである。

近年、土器の編年や放射性炭素年代測定の進歩によって、最古の本格的な前方後円墳、奈良県箸墓はしはか古墳の造営年代が3世紀中頃にさかのぼる可能性が高まり、卑弥呼が古墳時代を出現させた人物である可能性も出てきている。箸墓古墳は全長280メートル、それまでの墳丘墓とは隔絶した規模と測量技術で造営されている。箸墓古墳を契機として、九州地方南部から東北地方南部に至るまで、各地で王陵を模した前方後円墳の造営が始まった。ただこのことは、倭王の権力が強力に列島社会を統合したことを示すものではない。