複数の王統が大王位を目指し競合していた時代が終わり、唯一の系統が大王の地位を独占するに至るプロセスを、これまであまり注目されていなかった史料から読み解いた現代新書の最新刊『倭国 古代国家への道』。その発売を記念して、5・6世紀の列島社会における国家形成の歩みを素描した序章を前後編に分けて特別に全文公開。今回は古代史研究における史料の扱い方と本書の展望を示した後編をお届けします。
前編:「倭王はいつ、いかにして統治者としての専制的性格を獲得したか」
専制化の過程
継体天皇は実名を
その継体がどのようにして実権を掌握し、倭王位につくことができたのかは、不明な点が多い。ただ継体は即位前から大和に拠点を持つ有力な王族だった。継体はおそらく、仁徳系や允恭系などの倭王の王統とは直接の血縁関係を持たない、周縁王族の一人だったのであろう。彼の母方の拠点、越前国
その彼が倭王にまで上りつめることができたのは、一つには、
継体の死後、相次いで即位する
ただし、それだけで継体が倭王になることができたわけではない。もう一つの重要な条件は、倭王にふさわしい権威を手に入れることであった。継体は仁徳系王統の最後の倭王、武烈の同母姉、
新しいタイプの倭王の誕生
継体と手白香女王の間に生まれたのが、
なお『日本書紀』が継体治世の最後に引用する「百済本紀」という、倭国に亡命した百済人によってまとめられた書物には、日本の天皇と太子・皇子が共に逝去したとする記事がある。天皇を継体、太子を安閑、皇子を宣化とみて、彼らと欽明の間に政治的対立と内乱の勃発を推定する見解がある。
しかしこうした内乱の痕跡は、日本側の史料にはまったくあらわれない。終章で述べるように、この時代は朝鮮半島情勢の流動化によって失われつつあった倭国の権益を確保するため、国内統治の強化と外交関係の再構築が総力を挙げてめざされていた。また衰退した葛城の勢力に代わり、新たに台頭した
王統の統合と世襲化によって安定した王権は、列島統治のための新たな制度作りに取りかかる。人びとを奉仕する対象や職掌により、何々部という集団に編成する
列島社会を一円的に支配する仕組みや、天皇の称号の成立は7世紀を待たなくてはならないが、他の王族や豪族とは異なる特別な存在、つまり専制君主としての倭王の地位は、6世紀中頃に成立したのである。