複数の王統が大王位を目指し競合していた時代が終わり、唯一の系統が大王の地位を独占するに至るプロセスを、これまであまり注目されていなかった史料から読み解いた現代新書の最新刊『倭国 古代国家への道』。著者である古市晃氏は、『古事記』や『日本書紀』(併せて「記紀」と称す)など、奈良時代に編纂された史書にあらわれる王宮のあり方が、倭国の権力構造について具体的に考える上で重要な手がかりになる、と主張します。
そこで今回は、王名にあらわれる王宮名に基づいて5・6世紀の倭国の成り立ちを検討した第1章の前半部分を特別に公開します。
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いまだ謎の多い5・6世紀の王宮
5・6世紀の王宮について調べるのは、なかなかにむずかしい作業である。およそ7世紀、飛鳥時代より後の王宮であれば、文献史料にも信頼できるものが増えてくるし、何よりも豊富な発掘調査のデータがそのすがたを雄弁に物語ってくれる。しかし6世紀以前となると、文献史料は乏しく、王宮の確実な発掘調査も進んでいない。
古くさかのぼれば、「魏志倭人伝」には、邪馬台国の女王、卑弥呼が居した王宮について、楼閣と城柵が厳重に設けられ、常に兵士が守衛していると記される。また卑弥呼の周囲には婢1000人が仕え、男子は一人のみが飲食を運び、彼女の言葉を伝えたとも記される。卑弥呼の王宮は倭国の最初期の王宮のすがたを伝えるものである。
しかしその具体的な構造も、所在地もわかっていない。6世紀以前の王宮については、文献史学と考古学の双方が、検討のための十分な材料を持ち合わせていないというのが率直なところである。
その中にあって、奈良県桜井市の脇本遺跡は、発掘調査によって5世紀代の大規模な掘立柱建物などがみつかっており、第21代雄略天皇をはじめとする歴代の倭王が王宮をかまえた長谷(泊瀬)の王宮にあたる可能性が指摘されている。ただ調査面積が限られていることもあって、全容はまだ明らかになっていない。
5世紀最大の豪族、葛城勢力の拠点のひとつ、極楽寺ヒビキ遺跡(奈良県御所市)でみつかった巨大な掘立柱建物や、王陵級の前方後円墳でみつかる家形埴輪群などを参考にするならば、5世紀の王や豪族が政務や儀式を行うための大規模な建物を作るだけの技術をもっていたことはまちがいない。したがって、脇本遺跡をはじめとする5世紀の王宮にも、整然と配置された大規模建物群が存在した可能性は十分にある。
王宮の役割
しかし後世の王宮と比較した場合、脇本遺跡を特徴づけるのは、何よりもその立地である。藤原宮や平城宮といった7世紀後半以降の王宮が平坦な地形に立地し、巨大な建物と広大な儀礼空間を配してその威容を誇るのに対して、脇本遺跡は南北を山に囲まれ、南には川が流れる狭い谷地形の中にある。少し西に進むだけで平坦面が広がる奈良盆地があるというのに、5世紀の王宮はわざわざ谷の中に作られているのである。
長谷の谷は、奈良盆地と伊勢・尾張をはじめとする東方世界とをつなぐ要路であった。脇本遺跡は、その要路に面して立地する。仮にこの地に壮麗な王宮が作られていたとしても、それは軍事的性格の強い施設として理解する必要がある。それは、先の極楽寺ヒビキ遺跡が丘陵のわずかな平坦面に立地していること、各地で作られた豪族の居館が濠などの防御機能を備えていることと対応している。
5・6世紀、とりわけ5世紀の列島社会を統合するための装置として重要な意味を持ったのは、こうした城塞的な王宮よりも、葬送儀礼の場として目につくところに造営された、巨大な前方後円墳であったと考えられる。ただ5・6世紀の王宮が軍事拠点の性格の強い施設であったとしても、一方である程度長期間にわたり維持・管理されていたことも評価される必要がある。
この時代の王宮についてはこれまで、歴代遷宮という考え方が広く受け入れられてきた。歴代遷宮とは、天皇(倭王)が居する宮は基本的にその代替わりごとに作り直される、とするものである。たしかに、『古事記』、『日本書紀』には、歴代の天皇ごとに異なる宮名が記される。
たとえば雄略天皇について、『日本書紀』はその宮を泊瀬朝倉宮とし、続く清寧天皇については磐余甕栗宮、顕宗天皇は近飛鳥八釣宮とする。これが事実を伝えているとするならば、宮はたしかに天皇の代替わりにともなって新たに作り直されているようにみえる。