慶喜の誤算
しかし将軍慶喜は、あきらめなかった。彼は幕府の軍制と財政の改革=「大綱変革」を断行した。
目指すは、ナポレオン3世のフランス――そのためには、フランス公使ロッシュを幕府の政治顧問とし、必要な600万ドルにのぼる対仏借款を計画。その見返りとして、フランスに対日貿易の独占権を与えることが検討されていた。
役に立たない“旗本八万騎”には、軍事費とその領民を拠出させ、徹底的にフランス式の近代戦を修得させる。幕府は目にみえて、活力を取りもどしつつあった。
「慶喜は、徳川家康の再来なり」
と長州藩士・桂小五郎(のち木戸孝允(きど・たかよし))が驚嘆したのは、この事態を物語っていた。
ところが慶応3年(1867)10月14日、慶喜は突然、大政奉還の挙に出る。自ら将軍の座を、降りたのである。彼の明敏な頭脳は、このまま時間が経過して新政府が創出されたならば、自らがその代表として国政のトップに返り咲けるとの計算があった。
しかし、彼はより早い決着を求めて鳥羽・伏見の戦いに打って出てしまう。敗れた慶喜は、あっさりと恭順の意を表して謹慎、自らが描いたのとはまったく異なった明治維新を迎えことになる。
この間、多くの家臣が慶喜の身代わりとなって暗殺され、政局はその都度、混乱した。そのことに反省があったかどうか、慶喜は大正2年(1913)11月22日まで生きつづけた。享年は77。
つまり彼は将軍の座をおりてから、46年の長い余生を送ったことになる。
その彼を曲りなりにも肯定するためには、やはり徳川慶喜は、稀代の歴史主義者であった、としか見なしようがないのではあるまいか。