2021.10.25
# 戦争

【戦争秘話】場当たりで抽象的…「神頼み」作戦のために命を散らした若き特攻隊員達

「特攻」の誕生(3)前編
太平洋戦争末期の昭和19(1944)年10月25日、初めて敵艦に突入して以降、10ヵ月にわたり多くの若者を死に至らしめた「特攻」。近代戦争において世界的にも類例を見ない、正規軍による組織的かつ継続的な体当り攻撃はいかに採用され、実行されたのか。その過程を振り返ると、そこには現代社会にも通じる危うい「何か」が浮かび上がってくる。戦後76年、関係者のほとんどが故人となったが、筆者の四半世紀にわたる取材をもとに、日本海軍における特攻の誕生と当事者たちの思いを4回にわたって振り返る。本稿はその第3回となる。

【第1回】日本海軍司令部が戦わずして“自滅”に陥った「意外すぎる理由」とは

「特攻」に臨んだ関大尉

フィリピンで特攻隊が編成された翌日の昭和19(1944)年10月21日――。

この日の朝、第二〇一海軍航空隊(二〇一空)医務科分隊士・副島泰然軍医大尉に、同室で起居をともにしていた関行男(ゆきお)大尉が、

「副島大尉、ひげを剃ってくれませんか」

と、頼みに来た。

だが、副島は、関が熱帯性の下痢をしていて治療3日めだということを知っているから、

「病人がひげなんかいま剃らなくてもいいでしょう」

と気軽に答えた。

「いや、今日ぶつかりに行くんですよ」

関は言った。副島は、どういうことかと一瞬、解しかねたという。関は同室の軍医にも、特攻隊の指揮官に決まったことを話していなかったのだ。

ようやく事情が飲み込めた副島は、あまり切れ味のよくない安全剃刀の刃で、関の顔をぞりぞり剃った。

副島は軍医の立場で、関にこの3日間断食させている。この日は、多少症状がおさまってきたので、朝、おかゆを茶碗半分、昼1杯を食べさせることを決めていた。

だが、これから「ぶつかる」と聞いては、それではかわいそうである。副島は病室数棟を回診し、傷病兵の手当てをすませると、本部で関大尉の出撃時間を聞き、細長く丸い虎屋の羊羹3本を持って急いで飛行場にかけつけた。

午後4時、陸軍の百式司令部偵察機がレイテ沖に敵機動部隊を発見。敷島隊、朝日隊の2隊が出撃することに決まり、搭乗員に整列が命ぜられた。

10月21日、マバラカット西飛行場で、出撃直前の敷島隊、朝日隊の隊員たち。飛行服姿向かって左端が関大尉。落下傘バンドをつけた直掩隊をはさんで、左の列が敷島隊、右の列が朝日隊

飛行場の北側の台地に、二〇一空副長・玉井浅一中佐、第一航空艦隊参謀・猪口力平大佐に向かって右から、関大尉以下、中野磐雄一飛曹、谷暢夫(のんぷ)一飛曹、永峰肇飛長の4人、直掩隊2隊をはさんで、朝日隊の上野敬一一飛曹、崎田清一飛曹、磯川質男一飛曹の3人の隊員が並んだ。

このとき、稲垣浩邦カメラマンが撮影したニュース映画を見ると、直掩隊員がライフジャケットと落下傘バンドを身につけているのに対し、体当りする爆装隊員は落下傘バンドをつけておらず、関大尉はライフジャケットすら身につけていない。

玉井副長は、水筒を取り出して1人1人に別れの水盃をし、「海行かば」の音頭をとって歌った。歌は次に「若鷲の歌」になった。前年の昭和18(1943)年、公開されて大評判となり、多くの少年を予科練へと駆り立てた東宝映画『決戦の大空へ』の主題歌である。この映画の撮影が行われていた頃、舞台となった土浦海軍航空隊に、今回の特攻隊員の主力となっている甲飛十期生が在隊していた。

続いて玉井が、航空図を広げ、隊員たちに攻撃上の注意を与える。

「突入高度は3000メートル。低空で接近し、敵艦に十分近づいたところで高度をとり、切り返して突っ込め」

こうして、マバラカット西飛行場から、神風特攻隊第一陣は出撃した。谷暢夫一飛曹の零戦だけが、エンジン不調のため、直前で発進取りやめになった。

 

敷島隊は、爆装隊・関大尉以下3機、直掩隊・谷口正夫飛曹長以下4機。

洋上に出ると急に雲が多くなり、索敵機が報告した予定海面に到着しても、敵艦隊の姿が見当らない。陸軍の偵察機が、敵艦隊の針路を誤って報告したのかもしれないし、出撃前の儀式が長すぎたのかもしれなかった。

やがて帰投の燃料も尽きようというとき、関は引き返す決断をした。3機の爆装機は、積んでいた爆弾を海面に投棄すると、ルソン島南端近く、レイテ島からもほど近いレガスピー基地に不時着した。直掩隊の2機もそれに続く。直掩隊指揮官・谷口飛曹長と二番機・櫻井一飛曹の2機は、敷島隊の行動を報告するためマバラカットへ向かった。朝日隊の上野一飛曹もレガスピーに不時着した。

関連記事