日本に「天皇」はいつから存在するのでしょうか? このような素朴な問いは、古代日本社会において専制的な王権がいかにして成立したのかという問題へとつながるものです。
複数の王統による競合から、唯一の系統が大王の地位を独占するに至るプロセスを描き出した『倭国 古代国家への道』の著者・古市晃氏が、「万世一系」といわれる天皇のルーツを探ります。
「天皇」のルーツはどこまで遡るのか
天皇がいつから存在したのか、という問いは、おそらく多くの場合、たんに天皇の称号がいつ生まれたのかという問いにとどまらず、天皇につながる支配者がいつから存在するのかという問いにつながっているものと思われる。
天皇号の成立は飛鳥時代、7世紀のこととされるが、それが7世紀の前半に遡るのか、それとも後半にまで下るのかについては意見がわかれている。それ以前は天皇ではなく、倭(国)王または大王の称号が使われていた。
倭王の称号がはじめて確認できるのは西暦107年、後漢に使者を派遣した倭国王帥升だが、この倭国が日本列島のどのあたりを支配していたのか、その中心がどこにあったのかも明確にはわかっていない。まして後の天皇との血縁関係を考えることには無理がある。
では、西暦238年(239年説もある)、魏から倭国王の称号を認められた邪馬台国の女王、卑弥呼はどうか。
近年、列島で最初の本格的な前方後円墳とされる箸墓古墳(奈良県桜井市)の築造年代が3世紀中頃であることが確定的となり、邪馬台国が古墳時代の倭王たちと直接つながる可能性が高くなっている。
しかし卑弥呼もまた、古代天皇との直接的な血縁関係をもっていたわけではない。
雄略天皇は専制君主だったのか
飛鳥時代以降の天皇と直接血縁関係で結ばれることが明らかなのは、5世紀末から6世紀初頭にかけて即位した、継体天皇(男大迹王)以降の倭王たちである。それ以前、5世紀の倭王となると諸説紛々、わからないことが多い。
その中で、中国・南朝の宋の歴史書、『宋書』は、5世紀代に倭の5人の王(いわゆる倭の五王。讃、珍、済、興、武)が相次いで使者を派遣したことを記すが、珍と済の間に血縁関係が記されていないことから、5世紀の倭王には複数の王統があったことが指摘されてきた。
これが事実なら、5世紀の倭王の地位は一つの王統に統一されておらず、複数の王統が並び立っていたことになる。
一方、倭王武にあたる雄略天皇(大長谷若建命)は、478年、宋の皇帝に送った手紙の中で祖先以来、多くの国々を武力で制圧したことを誇っている。
日本列島の東西、埼玉県の稲荷山古墳と熊本県の江田船山古墳から出土した二本の刀剣にも雄略にあたる「ワカタケル大王」の名が記されている。稲荷山古墳出土の鉄剣には、471年にあたる「辛亥年」の年紀が記される。
こうしてみると、5世紀後半の倭王は、列島社会の統一を強力に推し進めたようにみえる。5世紀の倭王の地位の不安定性と専制性をどう解釈すればよいのだろうか。