「天皇」はいつから存在したのか? 古代日本の社会と権力構造

倭国、専制王権への道のり

古事記・日本書紀をどう読み込むか

5世紀の倭王の権力をより深く検討するためには、『古事記』『日本書紀』を積極的に活用するしかない。『古事記』も『日本書紀』も、天皇がこの世界を統治することの正当性を説くために作られた書物であり、その記述はすぐには信用できない。

カギは、王宮の所在地をめぐる情報を読み解くことにある。『古事記』『日本書紀』に記された歴代天皇の王宮名は、後世に作られたもので信頼できないが、5・6世紀の王族名に含まれる地名は、原則として彼らが住んだ王宮の所在地を示しており、信頼度が高い。

王名の検討を通じて明らかになる5世紀の王宮は、谷や丘陵など、防御に適した軍事的要衝の地が選ばれている。

もう1点、王宮は、これまで考えられてきたよりも広範囲に分布する。倭王や有力な王族の宮は奈良盆地の南部に集中しているが、一方で通常の王族たちの宮は奈良盆地北部や大阪湾岸、さらには京都盆地南部と、かなり広域に展開しているのである。

5世紀の王族は、平坦な場所に王宮を営むほどの安定的な権力を保っていたわけではなかった。さらに、何らかの理由で、広域に軍事的性格の強い王宮を設置しておく必要があった。以上の2点が、5世紀の倭王と王族の性格を考える際の出発点となる。

5世紀の倭王は複数の王統から選ばれていた

『古事記』や『日本書紀』には、允恭天皇にはじまり安康、雄略と続く允恭系王統と、それ以前から続く仁徳系王統が対立をくり返すさまが描かれる。この状況と、『宋書』の二つの王統の情報がリンクする。

このことと、倭王をはじめとする有力王族の王宮情報を重ね合わせてみよう。彼らの王宮は奈良盆地南部に継続して作られるから、その点では一体性を保持しているともいえる。

ただこの共存は安定的なものではない。允恭系の王族は仁徳系の王統と正常な婚姻関係を結ぶことができず、略奪婚や、当時でもタブーとされていた同母キョウダイ婚をくり返している。

さらに、2つの王統は対立をくり返したあげく、ついにはいずれも男系としては後継者が絶えてしまう。専制君主であるかにみえる雄略の権力もまた、不安定性を克服することはできなかったのである。

『宋書』は、皇帝が倭王とその一族に官爵を授与したことを記すが、その序列に大きな差がないことが指摘されている。5世紀の倭王の権力は専制的であったのではない。その王統はすくなくとも二つにわかれ、きびしい対立関係を内包していた。その対立を解消して王統を安定させることは、5世紀の王族には困難であった。