周縁王族――王族と豪族の間の曖昧な存在――
5世紀の王宮のもうひとつの特徴である、奈良、大阪、京都の広域に展開する点についてもみておこう。
これらの王宮所在地には、きまって王族同士の対立伝承が存在する。これらの広域に分布する王宮は、倭王と対立的な関係になり得る王族を牽制するための軍事拠点とみてよい。
5世紀には、倭王とその一族のほかにも、王を称することのできるグループが存在したのである。このグループを、筆者は周縁王族と名づけている。
周縁王族には、彼らを支える勢力が存在した。海人集団と、葛城(奈良盆地南部)、吉備(岡山県、広島県東部)、紀伊(和歌山県)の連合勢力である。
葛城、吉備、紀伊の勢力はそれぞれ倭国の中で有力な位置を占めていたが、それにとどまらず、大阪湾岸から瀬戸内海、および北部九州の広域にわたって共に活動を展開した。
彼らは外洋航海技術をもつ海人集団を統率することで、朝鮮半島諸国との交渉を独占していたのである。これが周縁王族の権力の源泉であった。
この連合勢力からは、葛城を拠点とするホムチワケ(本牟智和気)王のように、王族を名のる存在さえあった。5世紀には王族と豪族の境界はかならずしも確定しておらず、流動的な状況にあった。
5世紀の王の公共的機能
周縁王族のような曖昧な存在が成り立ち得たのは、5世紀の段階では王が果たすべき機能が倭王の下に集約されていなかったからである。
倭王の場合、巨大な前方後円墳を築造し、そこで行われる葬送儀礼を主催することを自らの権威の源泉としていたが、5世紀の倭人社会がそれだけで成り立っていたわけではない。
社会の再生産のためには、開発に不可欠な鉄を調達することが不可欠だったが、5世紀の段階では倭人は鉄鉱石や砂鉄から自前で鉄を取り出すことができず、朝鮮半島産の鉄に依存していた。
周縁王族は外交による鉄の調達を担うことで、王としての公共的機能を果たしていたと考えられる。5世紀の王族が後世からみれば不安定で流動的な状態にあったのは、こうした社会の生産力に規定されてのことであった。