2021.10.26

江戸時代「吉原の最高位の遊女」と過ごすためには、いくら必要だったのか? 驚きの値段

田中 優子 プロフィール

1760年代には遊女屋で複数の花会が開催され、1770年には、高崎藩士で洒落本作家の蓬莱山人が『抛入狂歌園』という見立て絵本を出しています。これは生け花を鈴木春信や桐屋五兵衛(飴屋)、丁子屋喜左衛門(歯磨き粉屋)、笠森お仙など、当時の江戸の有名人たちに見立てた本でした。

生け花は茶の湯と関わった武士の世界のものですが、その武士が江戸文化に狂歌師や戯作者として乗り出して来たのです。彼らの担った文化は江戸で町人文化と交叉しました。町人の版元が経営する出版業界に、多くの武士たちが、その深い教養と文化をたずさえて入って来たのです。『一目千本』は明らかに『抛入狂歌園』の蹈襲で、遊女はこの本で、花に見立てられる江戸の著名人の仲間入りをしたのです。

このように吉原と遊女は蔦屋重三郎の仕事を通して、「江戸文化」そのものになって行きました。

 

「花魁」という名称の起源

ところで、気になるのは「花魁」です。この文字は「花のさきがけ」という意味です。1760年代に「太夫」という位が消滅して「おいらん」はその後に出て来た言葉ですが、この字が当てられたのは1770年より後だと思われます。

だとすると、遊女を花に見立てるということが出版上でおこなわれ、その結果として「花魁」という文字が出現したと考えることも可能なのではないでしょうか。これらのことを考えると『一目千本』は、吉原を文化的な天上世界に押し上げる意図を持って編纂された、と思われるのです。

吉原で生まれ育った蔦屋重三郎は吉原の醜さも素晴らしさも知り尽くしていました。だからこそ、出版によってそれを江戸および日本文化の代表となし、さらには芝居も、それに並ぶ日本文化の象徴としたのではないでしょうか。

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