差別意識は「差別される側」にも刷り込まれる

ただ、バイセクシュアルのスーパーマンを見て、思わずギョッとしてしまった人を責めるつもりはない。逆に2019年、実写版『リトル・マーメイド』の主役である人魚アリエルを黒人歌手のハリー・ベイリーが演じると報道された際、僕はギョッとする側の人間だったからだ。このハリーがメンバーを務めるChloe x Halleというデュオの曲は以前から何度か聴いていたし、すぐにすんなりと納得したのだが、困惑する感情が一切なかったと言えば嘘になる

ハリー・ベイリー〔PHOTO〕Getty Images

でもその一方で、原作ではアジア人だったキャラクターが映画では白人になっている作品を見つけたり、原作には存在していた同性愛描写が映画では消されている作品を知ったとき、同じように僕はギョッとしただろうか。いいや、しなかった。恐らくそのギョッとする感情というのは、「慣れ親しんだキャラクターの変化」だけが理由ではないからだ。

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かつて好きでよく観ていた映画があった。1998年にアメリカで公開された『ザ・グリード』というモンスター映画なのだが、この作品内では最初と二番目の犠牲者を共にアジア人女優が演じている。全体的に見ても非白人俳優の死亡が目立ち、最終的には白人男優が大活躍し、そのフォロー役の白人女優と結ばれるという展開で幕を閉じる。それに対して、当時は何の違和感も抱かなかった。

この映画に限らず、最終的に白人男性(それも往々にして異性愛者)だけが大活躍して終わるという物語はそこら中に溢れていたが、それ自体に何も思わずにいられたのは、「マジョリティ以外のキャラクターが活躍する」という概念が自分の中になかったからだろう。では、そうした概念が抜け落ちていた原因とは何なのかと言えば、社会や世界中に存在する構造的差別と、それによって自分の中に深く刷り込まれた偏見に他ならない。だからこそ、概念を刷新するための前例が生まれれば、人々の意識も変わるのではないか。