小林一茶の鋭い社会批評
1813年(文化10年)10月13日の夜、小林一茶は滞在先の信濃の善光寺宿で打ちこわしに遭遇します。一茶の日記です。
十三日 晴 午刻雨
於善光寺夜盗三百人計蜂起シテ、破富民二十三家
於善光寺夜盗三百人計蜂起シテ、破富民二十三家

善光寺の貧しい町民たちが米価の値下げを求めて決起したのです。
当時、日本各地で打ちこわしが頻発していました。米仲買が不当に米価を釣り上げることがしばしばあり、打ちこわしが起きる原因になりました。
ちなみに打ちこわしは一揆とは異なり、対象となる富商の家屋を破壊するのみで、人を殺めたり、火を放ったり、金品を略奪したりすることはありませんでした。あくまでも窮状を訴えるための行為でした。
一茶といえば、次のような俳句で知られています。それは童話や民話に通じる、あたたかみのある俳句です。
我と来て遊べや親のない雀
雪とけて村一ぱいの子ども哉
瘦蛙負けるな一茶是にあり
雀の子そこのけそこのけ御馬が通る
雪とけて村一ぱいの子ども哉
瘦蛙負けるな一茶是にあり
雀の子そこのけそこのけ御馬が通る
こうした句も口馴染みがよく、たしかに素晴らしいのですが、その一方で、当時の社会について鋭い批評性をもった句もたくさん作っています。
とくにお金や経済をテーマに詠んでいるのですが、それによって、一茶は俳句の世界を広げることに成功しました。
一茶が生きていた「超絶格差社会」
一茶が生きた文化文政時代(1804〜1830)は江戸の後期にあたり、一茶没後、およそ40年で明治維新をむかえます。すでに近代化の基盤は整っており、社会全体としては、けっして貧しい時代ではありませんでした。