武家政治の開拓者、源頼朝と北条義時の実像に迫る

最高権力者に上り詰めた2人の素顔
日本史を変えた「鎌倉殿」と「執権」という、2人の政治家――。
源平合戦から承久の乱まで、武士中心の社会は、いかにして生まれたか?
朝廷と幕府の関係が劇的に転換する日本史上の画期を描き出した現代新書の最新刊『頼朝と義時』より、「はじめに」をお届けします。

暗い雰囲気がつきまとう2人

源頼朝と北条義時。歴史教科書に太字で名前が載る重要人物である。頼朝は平家を滅ぼし、最初の武家政権である鎌倉幕府を創設した人物、そして義時は承久じょうきゅうの乱で後鳥羽ごとば上皇方に勝利することによって幕府と朝廷の力関係を劇的に転換し、武家政治の流れを確立した人物である。

頼朝と義時という2人の人物がいなければ、中世、さらには近世も武士中心の社会にはならず、日本の歴史はまったく異なる展開をたどったかもしれない。

そのような偉業を成し遂げた2人であるが、彼らに対する後世の評価は芳しいものでは ない。頼朝は異母弟義経よしつねを死に追いやったために、江戸時代の庶民にも嫌われた。義時もまた後鳥羽ら3上皇を流罪にした逆臣として近世段階から批判され、天皇の権威を絶対視する近代においては特に強く非難された。

いわゆる源平合戦(学界では「治承じしょう寿永じゅえいの内乱」と呼ぶ)において、頼朝と義時の実戦経験は実は少ない。頼朝が陣頭で指揮をとったのは挙兵した治承4年(1180)の間だけであり、以後、平家が滅びるまで基本的に鎌倉を離れなかった。

義時も旗揚げ時こそ各地を転戦したが、その後は鎌倉にいることが多かったようである。元暦げんりゃく元年(1184)には平家討伐のため、源範頼のりより(頼朝の異母弟)に従って西国に向かったが、特筆するような戦功を立てていない。

承久の乱の時も、義時は鎌倉に留まった。戦場で華々しい活躍をしたことがないまま最高権力者に上り詰めた2人には、どうしても暗い雰囲気がつきまとう。

「冷酷な策謀家」になるまで

現代においても2人のイメージは基本的には「冷酷な策謀家」というものだろう。両人が権謀術数を駆使したことは事実である。しかし、そうした行動は必ずしも彼らの生来の性格に起因するものではない。

頼朝は源氏の御曹司ではあるが、父義朝よしともが謀反人として殺された後は、わずかな庇護者と家臣を頼りに、20年の間、一介の流人として過ごした。平清盛たいらのきよもりの温情によって助命された頼朝だが、平家全盛の世にあって、身の安全の保障などない。誰が味方か、誰が信用できないか、常に周囲の人間の言動に注意を払う習慣を身につけたことだろう。

源頼朝(Photo by gettyimages)

そうした不安定な環境は挙兵後も変わらない。譜代の家臣を持たない頼朝の立場は、現代人が思う以上に脆弱なものだった。極端に言えば、有力な東国武士たちの御輿みこしの上に乗っているにすぎない。勢力のバランスが崩れれば、頼朝は転落しかねないのだ。頼朝が猜疑心の強い人物になったのは当然であり、自分の立場を守るために粛清を繰り返したのは止むを得ないことだった。 

義時にも権力闘争を幾度も仕掛ける事情があった。最近は北条氏を「田舎武士」とみなす通説への批判が強まっているが、三浦氏や千葉氏といった有力御家人に比して弱小な御家人であったことは間違いない。

義時の強みは、姉の政子まさこが頼朝の正室であるというだけである。北条氏が並み居る有力御家人を押しのけて筆頭御家人の地位を占めるには、相当の無理が必要だった。