源平合戦から承久の乱まで、武士中心の社会は、いかにして生まれたか?
朝廷と幕府の関係が劇的に転換する日本史上の画期を描き出した現代新書の最新刊『頼朝と義時』より、「はじめに」をお届けします。

暗い雰囲気がつきまとう2人
源頼朝と北条義時。歴史教科書に太字で名前が載る重要人物である。頼朝は平家を滅ぼし、最初の武家政権である鎌倉幕府を創設した人物、そして義時は
頼朝と義時という2人の人物がいなければ、中世、さらには近世も武士中心の社会にはならず、日本の歴史はまったく異なる展開をたどったかもしれない。
そのような偉業を成し遂げた2人であるが、彼らに対する後世の評価は芳しいものでは ない。頼朝は異母弟

いわゆる源平合戦(学界では「
義時も旗揚げ時こそ各地を転戦したが、その後は鎌倉にいることが多かったようである。
承久の乱の時も、義時は鎌倉に留まった。戦場で華々しい活躍をしたことがないまま最高権力者に上り詰めた2人には、どうしても暗い雰囲気がつきまとう。
「冷酷な策謀家」になるまで
現代においても2人のイメージは基本的には「冷酷な策謀家」というものだろう。両人が権謀術数を駆使したことは事実である。しかし、そうした行動は必ずしも彼らの生来の性格に起因するものではない。
頼朝は源氏の御曹司ではあるが、父

そうした不安定な環境は挙兵後も変わらない。譜代の家臣を持たない頼朝の立場は、現代人が思う以上に脆弱なものだった。極端に言えば、有力な東国武士たちの
義時にも権力闘争を幾度も仕掛ける事情があった。最近は北条氏を「田舎武士」とみなす通説への批判が強まっているが、三浦氏や千葉氏といった有力御家人に比して弱小な御家人であったことは間違いない。
義時の強みは、姉の