2021.12.02
# 戦争

旧日本軍の「お粗末な戦いぶり」に呆れた…真珠湾作戦に参加した男が語った“戦争のむなしさ”

真珠湾の回想・第5回
神立 尚紀 プロフィール

真珠湾は人生のほんのひとコマ

攻撃を終え、他隊と合流したとき、ふと下を見ると、敵の飛行艇がなぜか悠々と飛んでいるのが見えたので、少し脅かしてやれ、と銃撃を加えてから帰りました。

帰艦すると、第一航空艦隊司令長官(機動部隊最高指揮官)・南雲忠一中将、この人は私が飛行学生になる前、戦艦「霧島」乗組のとき直属の戦隊司令官でお仕えしたことがあったんですが、私の顔をちゃんと覚えていてくれていて、艦橋からわざわざ飛行甲板に降りてきて、私を抱きしめて「よく帰ってきたな」とねぎらってくれました。

しかし、真珠湾に行ったというのは、私にとって特別なことというより、いろんな場面でいろんなことをやってきたうちの、人生のほんのひとコマだという気がしますね。

昭和17(1942)年4月5日、インド洋作戦のときは、イギリス海軍の1万トン級巡洋艦2隻を撃沈しましたが、私が目標にした「ドーセットシャー」は、私たちが兵学校生徒だった昭和11年、江田島を親善訪問して、見学に行ったり、向こうの乗組員が兵学校に来たり、交流したことがあったんです。だからあのときは、戦争というのはむごいものだと思いましたね。ほんの数年前には親しく肩をたたき合った仲なのに。

05 昭和17年4月5日、九九艦爆の猛攻を受け、沈没する英巡洋艦「ドーセットシャー」。昭和11年には江田島の海軍兵学校を親善訪問した
 

その後、空母「蒼龍」に転勤になり、偵察機として配備された新鋭の十三試艦上爆撃機(のちの「彗星」)2機を所管する分隊長になりましたが、6月5日のミッドウェー海戦で母艦が撃沈され、駆逐艦に救助されて還ってきました。それから空母「飛鷹」の艦爆分隊長になってソロモン諸島へ行き、ラバウル基地に派遣されて、内地への転勤辞令が出たのも知らずに戦い続けたんです。

18(1943)年1月、横須賀海軍航空隊(横空)の特修科学生として内地に帰り、ここで偵察員から操縦員への転換訓練を受けました。私は、自動車でも社長は後席、指揮官は後席の偵察員の方がいいと思い、志望して偵察員になったんですが、同じように偵察員から操縦員に転換した大先輩の江草隆繁少佐から「君は今日から操縦配置」と、有無を言わせず彗星の操縦員にさせられて。それから航空戦艦「伊勢」からのカタパルト射出試験をやったり、横空の彗星艦爆隊を率いて硫黄島で戦ったり、いろんなことがありましたが、なかでも私自身、印象に深いのは戦争末期のフィリピン戦線でのことです。

ミッドウェー海戦以降、大淵(本島)氏が心血を注いだ艦上爆撃機「彗星」
昭和17年後半、空母「飛鷹」艦上の大淵珪三大尉
昭和19年6月、横須賀基地より硫黄島へ出撃直前の大淵珪三大尉

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