2021.12.02
# 戦争

旧日本軍の「お粗末な戦いぶり」に呆れた…真珠湾作戦に参加した男が語った“戦争のむなしさ”

真珠湾の回想・第5回
神立 尚紀 プロフィール

「空地分離」

19(1944)年10月、彗星27機で編成された攻撃第五(K5)飛行隊長としてルソン島のクラーク・フィールドへ進出したんですが、その頃にはもう、日本側は人事や飛行場の整備からして戦争ができるような状況ではありませんでした。

当時の海軍航空隊は「空地分離」といって、飛行機隊は「特設飛行隊」というひとつのユニットとして進出した先の指揮官の指揮下に入ることになったんですが、私がいまだに釈然としないのは、要するに特設飛行隊には人事権がないんです。人事権がないから隊員の身上調書などの必要書類も回ってこず、別の部隊が壊滅して私の隊に編入される隊員がいたり、私の部下がよその基地に着陸してそこから特攻隊に出されたりしても、こちらではわからないわけですよ。

「空地分離」を考えたのは軍令部参謀だった源田實中佐(のち大佐)だそうですが、飛行隊長が自分の部下の把握もできないおかしな制度でしたね。27機、54名の搭乗員でクラークに進出したK5でしたが、20(1945)年1月、引き揚げ命令を受け、鹿児島県の国分基地に帰還することのできた隊員はわずか4名でした。

 

戦争が終わったときは、それまで、あんまりこちらの戦いぶりのお粗末なところを見てきたから、なんでこんな戦争を始めたんだと、そういう気持ちが強かったですね。子供だって喧嘩するときは止めどきを考えてやるでしょう。それが全くなかったわけですからね。

戦後は、我々軍人としたら、まあ、会社が倒産して放り出されたようなものでしたが、海軍兵学校を出ていると旧制高等学校卒業相当ということで大学の受験資格があったので、21(1946)年に東京慈恵会医科大に入り、22(1947)年に結婚して姓が本島にかわって、本島家の当主に代々続く「自柳」の名を世襲しました。

自衛隊や日本航空からパイロットとして来ないかという誘いもありましたが、もう宮仕えはたくさんと断りました。弾丸さえ飛んでこなきゃ、飛行機ほど面白いものはないんですけどね。生き残った残りの半分を、ひとつ楽にやってやれ、という気持ちも多少はありましたが、必ずしもこれは思った通りにはいかなかったですな。

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