ウクライナとロシア、揉め事の構造
我々日本人は、ユダヤ人と白人の見わけもつかないほどなので、同じスラブ系のウクライナ人とロシア人は全く見わけられない。
それは、実は彼らも同じ。もともと、中世初期のロシアは今のウクライナの首都キエフを筆頭とする、都市国家の集まりだった。それも、キエフやノブゴロドといった都市を建設したのは、バルト海地域からコンスタンチノープルに南下する河川商業ルートを開拓した「ヴァリャーグ」、つまりヴァイキングたち。
彼らと現地スラブ人たちが混血した結果、今の「ウクライナ人」、「ロシア人」ができたものと思われる。両者の言語は、津軽弁と鹿児島弁同士よりもっと類似している。
この都市国家群は13世紀、ノブゴロドなどを除いてモンゴルに制圧される。その中で、モンゴルに収める税の徴収を委託され、それをぴんはねしたモスクワ公国が力を伸ばし、モンゴルを駆逐して19世紀末には太平洋にまで至る領土大国(中身はあまりない)を作り上げた――というのが、現在の「ロシア」の来歴だ。
その間、今のウクライナのあたりはどうしたかと言うと、ばらばらのままで、ロシアのように1つの集権国家を作るには至らなかった。
ポーランドの勢力圏にあった西部、リトアニアの勢力圏にあった中部、コサックなどが入植する地域をロシアが併合した東部に分かれたままで、第1次大戦後の血で血を洗う内戦の末、1920年ロシアの革命勢力の下にウクライナ社会主義共和国として初めて統一(と言ってもソ連邦の内部でだが)されている。